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◆川窪(かわくぼ)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「鹽山」(大正4.4)を使用したものである

在:甲府市川窪町(かわくぼまち)
地形図:甲府北部/塩山
形態:下川窪―川沿いに家屋が集まる 上川窪―川沿いの斜面に家屋が集まる
標高:下川窪―約730m 上川窪―約800m(水面は約790m)
訪問:2020年11月

 

 川窪町の西寄り、荒川(笛吹(ふえふき)川支流)の左岸にある。現在は荒川ダムの人造湖(能泉(のうせん)湖)に多くが水没。
 下川窪はダム堰堤付近に当たり、全域が堰堤用地もしくは水没。管理事務所のやや上流には移転した墓地や、祠・石造物が多く集められた一角がある。また「故郷の碑」が建ち、その由来と移転者の名が刻まれている。
 以下は「故郷の碑 由来」の全文。


 荒川は甲府市及び周辺の母なる川として 昔から人々のくらしを支え親しまれてきました しかし一方ではその名のとおりあれ川で たびたび大きな
水害をひき起し 沿岸の人々を苦しめてきました また渇水ともなれば飲み水や灌漑用水にもことかき 水をめぐる争いもありました
 このため山梨県は ダムの機能により下流の水害を防止し地域の人々のくらしの水にもことかかぬうるおいのある川とするためこの地に荒川ダムを造ることにしました
 しかしながら湖底に沈む甲府市川窪町に居住していた三十世帯の方々が やむなく先祖伝来の土地を離れることになりました
 ここに ダム建設に対して深い御理解と御協力をいただいた皆様の氏名を銘記し 感謝の意を表します


 碑文の隣には、「ダム建設のため転出された協力者」として、長田氏12名、窪寺氏4名、高野氏9名、千野氏4名、中野氏1名の名が記されている。
 なお右岸には食事処が営業しているが、こちらは高町(たかちょう)となり川窪には含まれない。
 上川窪は記念館広場の南西にあたり、標高だけで見れば水没は一部のみ。しかし水没を免れた地も湖畔の土地の造成により痕跡は皆無となっている。

 市史によると、ダム建設の主な経緯は以下のとおり。

 荒川総合開発は、昭和25年から荒川上流の扇谷地点の調査から始まり県により実施。同29年には建設省の直轄調査となった。しかし調査そのものは県に委託され、扇谷のほか下流の川窪町付近も候補地として調査された。検討の結果川窪を最適地とし、測量や調査が同46年まで続けられた。
 昭和47年7月、県は市に対し荒川ダム建設のための協議を求めた。
 市はダム建設に原則賛成の立場を取る。昭和48年1月、市議会に対し、事業費の市負担分の軽減、流域の自然保護と水質の保全、川窪町住民の意見尊重など数項目を要望する意見書を提出。
 市長は意見書を受け知事に対しダム建設に関する要望書を提出。市はダム建設に参加することを正式に決定。
 昭和48年4月、荒川ダム調査事務所設置(後の荒川ダム建設事務所)。また川窪町に荒川ダム建設反対同盟が結成される(水没予定31戸中28戸が参加)。
 昭和48年8月の第1回説明会から始まった補償交渉により、2年半後には川窪町のダム建設反対同盟は絶対反対の姿勢を変え、水没者対策協議会と改められた。
 昭和53年3月、補償問題が妥結し最終調印。
 なお下流の敷島町【現・甲斐市】はかねてから荒川ダムの建設に反対しており、昭和48年7月に荒川ダム対策協議会を結成。県・市との交渉が何度も行われたが、主張は平行線のままダム工事は進められた。なお昭和53年度中には荒川に水利権を持つ堰のうち、同町の8つの堰を除きすべて同意が得られている。

 なお完成は昭和61年3月(県公式ウェブサイトより)。

 以下は資料『荒川ダム建設に伴う環境現況調査書』より。

昭和51年現在、下川窪13戸52人、上川窪18戸97人(※)。国勢調査では、川窪町全体で昭和30年31戸193人、同45年25戸99人、同50年23戸78人
下川窪はすべて長田姓。上川窪は高野11・窪寺5・千野5・中野1・長田1
寺院は円通寺。上川窪のいちばん奥にあった。御岳の羅漢寺が本寺
氏神は細草神社で、下川窪にあった。塔岩・竹日向・高成・平瀬に同名の神社があるが、平瀬のものが本社であるよう
墓地は古くは各家ごとにあったが、のち上・下それぞれに共同墓地が作られた。円通寺とは関係がなく、それぞれ集落を見下ろす高台にあった
川窪に昔から伝わる民謡に、「猪狩 川窪 寒地獄 まして黒平 鬼が棲む」というものがあり、生活環境の悪さが窺える
日照時間も少ない。特に冬は朝と夕方に僅かに日が差す程度で、俗に「川窪の二度ッ日」と言われるほどであった。また冬の季節風は午前は川上から、午後は川下から吹き抜けてくる。昭和15年の火災も、川下から吹き上げる川風に煽られたため延焼している
谷に面しているが、水害は少ない
全体的に水田は少なく、畑作がほとんど。蕎麦は名産で、特に上川窪で盛んであった。夏と秋、2度収穫
明治以降では、炭焼きと養蚕が主な収入源。機織りは他地域ほど盛んではなかった
戦後は木炭の需要が減り、製炭に従事する者はいなくなった。現在山仕事で生計を立てる家は4戸で、もっぱら県や市からの請け負いで林業に従事。他の家々では高齢者がかろうじて農業に従事しているが、若い世代は甲府方面に出てしまう人が多い
火災が度々起こっている。最近では昭和15年に大火があり、下川窪から発生した火事がたちまち上川窪に延焼。全村が焼け、よって昭和15年以前の古い建物はほとんどない
細草神社や円通寺も全焼し、過去の史料が一切焼失。神社・寺院とも再建することができず、火災を機に途絶えた年中行事や習慣もある

※ 戸数については、空家も含まれていると思われる。人口も、転出後も通いで訪れる家族等が含まれるか

 「角川」によると、「川窪町」は近世の山梨郡川窪村。明治8年能泉村の一部、のち大字川窪、昭和29年甲府市の町名となる。慶長年間15戸、文化3年33戸123人、昭和30年31戸193人、同45年45戸131人。同57年4戸8人。開田されず畑に雑穀を栽培していたが、明治期になってから桑畑となり、養蚕が盛んになった。夏は養蚕、冬は製炭を行い、特に木炭は良質で、「御岳炭」として知られていたという。
 なお先述の円通寺のほか慈照庵(山号は放光山)を挙げており、これも焼失したとのこと。
 また薬用植物が豊富なところで、山梨県下ではまれな地域であるとしている。

 

≪下川窪≫

写真1 ダム堰堤(集落跡地に建造)

写真2 堰堤と湖面(集落跡地)

写真3 墓地

写真4 細草神社の祠

写真5 庚申塔

写真6 石造物群

写真7 祠

写真8 石造物群

写真9 金毘羅大権現

写真10 弘法さん

写真11

写真12 六地蔵

写真13 六地蔵

写真14 碑
≪上川窪≫

写真15 集落跡。写真上やや左はそば店

写真16 記念館

 

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