市史によると、ダム建設の主な経緯は以下のとおり。
荒川総合開発は、昭和25年から荒川上流の扇谷地点の調査から始まり県により実施。同29年には建設省の直轄調査となった。しかし調査そのものは県に委託され、扇谷のほか下流の川窪町付近も候補地として調査された。検討の結果川窪を最適地とし、測量や調査が同46年まで続けられた。
昭和47年7月、県は市に対し荒川ダム建設のための協議を求めた。
市はダム建設に原則賛成の立場を取る。昭和48年1月、市議会に対し、事業費の市負担分の軽減、流域の自然保護と水質の保全、川窪町住民の意見尊重など数項目を要望する意見書を提出。
市長は意見書を受け知事に対しダム建設に関する要望書を提出。市はダム建設に参加することを正式に決定。
昭和48年4月、荒川ダム調査事務所設置(後の荒川ダム建設事務所)。また川窪町に荒川ダム建設反対同盟が結成される(水没予定31戸中28戸が参加)。
昭和48年8月の第1回説明会から始まった補償交渉により、2年半後には川窪町のダム建設反対同盟は絶対反対の姿勢を変え、水没者対策協議会と改められた。
昭和53年3月、補償問題が妥結し最終調印。
なお下流の敷島町【現・甲斐市】はかねてから荒川ダムの建設に反対しており、昭和48年7月に荒川ダム対策協議会を結成。県・市との交渉が何度も行われたが、主張は平行線のままダム工事は進められた。なお昭和53年度中には荒川に水利権を持つ堰のうち、同町の8つの堰を除きすべて同意が得られている。
なお完成は昭和61年3月(県公式ウェブサイトより)。
以下は資料『荒川ダム建設に伴う環境現況調査書』より。
昭和51年現在、下川窪13戸52人、上川窪18戸97人(※)。国勢調査では、川窪町全体で昭和30年31戸193人、同45年25戸99人、同50年23戸78人
下川窪はすべて長田姓。上川窪は高野11・窪寺5・千野5・中野1・長田1
寺院は円通寺。上川窪のいちばん奥にあった。御岳の羅漢寺が本寺
氏神は細草神社で、下川窪にあった。塔岩・竹日向・高成・平瀬に同名の神社があるが、平瀬のものが本社であるよう
墓地は古くは各家ごとにあったが、のち上・下それぞれに共同墓地が作られた。円通寺とは関係がなく、それぞれ集落を見下ろす高台にあった
川窪に昔から伝わる民謡に、「猪狩 川窪 寒地獄 まして黒平 鬼が棲む」というものがあり、生活環境の悪さが窺える
日照時間も少ない。特に冬は朝と夕方に僅かに日が差す程度で、俗に「川窪の二度ッ日」と言われるほどであった。また冬の季節風は午前は川上から、午後は川下から吹き抜けてくる。昭和15年の火災も、川下から吹き上げる川風に煽られたため延焼している
谷に面しているが、水害は少ない
全体的に水田は少なく、畑作がほとんど。蕎麦は名産で、特に上川窪で盛んであった。夏と秋、2度収穫
明治以降では、炭焼きと養蚕が主な収入源。機織りは他地域ほど盛んではなかった
戦後は木炭の需要が減り、製炭に従事する者はいなくなった。現在山仕事で生計を立てる家は4戸で、もっぱら県や市からの請け負いで林業に従事。他の家々では高齢者がかろうじて農業に従事しているが、若い世代は甲府方面に出てしまう人が多い
火災が度々起こっている。最近では昭和15年に大火があり、下川窪から発生した火事がたちまち上川窪に延焼。全村が焼け、よって昭和15年以前の古い建物はほとんどない
細草神社や円通寺も全焼し、過去の史料が一切焼失。神社・寺院とも再建することができず、火災を機に途絶えた年中行事や習慣もある
※ 戸数については、空家も含まれていると思われる。人口も、転出後も通いで訪れる家族等が含まれるか
「角川」によると、「川窪町」は近世の山梨郡川窪村。明治8年能泉村の一部、のち大字川窪、昭和29年甲府市の町名となる。慶長年間15戸、文化3年33戸123人、昭和30年31戸193人、同45年45戸131人。同57年4戸8人。開田されず畑に雑穀を栽培していたが、明治期になってから桑畑となり、養蚕が盛んになった。夏は養蚕、冬は製炭を行い、特に木炭は良質で、「御岳炭」として知られていたという。
なお先述の円通寺のほか慈照庵(山号は放光山)を挙げており、これも焼失したとのこと。
また薬用植物が豊富なところで、山梨県下ではまれな地域であるとしている。