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◆豊原(とよはら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「永平寺」(昭和23.1)を使用したものである

所在:坂井市丸岡町豊原(まるおかちょう―)
地形図:丸岡/永平寺
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:豪雪
標高:約180m
訪問:2012年11月

 

 町の東部。かつて栄華を誇った豊原(とよはら)寺を中心とした集落。
 資料『越前 豊原』によると、豊原寺(天台宗。山号は白山)は平安中期以降比叡山の末寺となり、平泉(へいせん)寺とともに越前の白山信仰の拠点となった。中世の隆盛期には豊原三千坊と称され、その門前町として集落が栄えた。戦国期には一向一揆の拠点となったため、焼き打ちに遭い灰燼に帰す。その後豊原城が築かれるが、間もなく丸岡城に移る。その際寺社や住民も丸岡城下に移り、跡地には田畑が開かれた。白山神社等豊原八社権現も祀る神仏混淆の寺であったが、神仏分離令により華蔵院と白山神社に分離。
 以下は寺と集落の主な沿革(抜萃)。

 大宝2(702)  泰澄(たいちょう)大師が豊原寺を創建
 天長8(831)  昌龍(しょうりゅう)和尚、豊原寺を再興
 天治元(1124)  藤原以成、豊原寺を再興。5社の霊廟と500余の寺坊を建立。のち中世に豊原三千坊として繁栄することとなる
 明応3(1494)  朝倉貞景、一向一揆撲滅のため豊原寺ほかに布陣
 天正2(1574)  一向一揆、豊原寺を攻略
 天正3(1575)  織田信長、一向一揆の本拠地となっていた豊原寺の各院や霊廟・数百の寺坊を焼き払う
 柴田勝豊、東得坊・西得坊を建立
 天正4(1576)

 柴田勝豊、豊原の山城を丸岡に移転。これに倣い、翌年にかけて多くの寺院が丸岡に下山(華蔵(けぞう)院は残留)

 文禄元(1592)  (この頃270坊)
 慶長8(1603)  結城秀康、豊原八社と華蔵院を復興
 延宝6(1687)  豊原寺、越前国三十三ヶ所札所の10番札所となる。吉谷は18番札所となる
 正徳3(1713)  鐘楼建立
 正徳6(1716)  川上白山権現社前に燈籠建立
 天保5(1834)  延命地蔵尊建立 統融和尚、豊原村設立
 天保7(1836)  陀羅尼塔建立
 慶応3(1867)  神仏分離令により華蔵院と白山神社に分離
 明治2  華蔵院焼失
 明治4  華蔵院院主が豊原姓を名乗る
 昭和38  豪雪。12戸全戸が離村し、無住となる
 昭和54  町が豊原寺跡の発掘調査を開始
 平成11  豊原寺史跡保存会設立

 現地では小規模なキャンプ場が営まれ、また史跡を訪ねる人々のためにある程度整備されている。後年の集落は現在のキャンプ施設付近の川沿いに集まっていたようで、現地の絵地図(写真5)には下流より石隅・大草・五十嵐・石川・平井・石隅・安原・塚谷・塚谷・竹内・豊原の計10戸が記されている。訪問の際は絵地図を参考にすると全容を把握しやすい。最近の地図で神社の記号が記されているのは閼伽井(写真15)付近であるが、白山神社は集落東部の山中にあり斜面を数十メートル登ることになる。
 登り口にあたる田屋(たや)には移転された白山神社(写真21)や「豊原三千坊史料館」(写真22)があったが、史料館は訪問時休館であった。
 なお大字豊原は近世の坂井郡豊原村。明治22年長畝(のうね)村(のち丸岡町)の大字となる。大正9年14戸86人、昭和10年12戸51人、同30年11戸64人(角川)。

 


写真1 石仏

写真2 屋敷跡

写真3 屋敷跡

写真4 屋敷跡のキャンプ施設

写真5 絵地図

写真6 仏堂

写真7 六地蔵と「豊原三千坊跡」の碑

写真8 豊原寺跡の看板

写真9 華蔵院跡

写真10 華蔵院庭園跡

写真11 豊原家墓地

写真12 小祠と石仏

写真13 川上神社手前の灯籠

写真14 川上神社

写真15 塔の池(閼伽井)

写真16 八幡神社跡

写真17 稲荷社

写真18 白山神社跡

写真19 境内の石仏群

写真20 陀羅尼塔

(写真21 移転後の白山神社)

(写真22 豊原三千坊史料館)

 

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