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◆荕生谷(あぞうだに・あぞだに)
※ お使いの環境によって、文字が正しく表示されないことがあります(【くさかんむりに肋】)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「大野」(大正8.9)を使用したものである

所在:池田町荕生谷(莇生谷)
地形図:宝慶寺/大野
アクセント:アゾーダニ・アゾダニ
異表記:莇生谷
形態:谷沿いに家屋が集まる
離村の背景:最終は災害
標高:約400m?
訪問:2012年11月

 

 町の中部、部子川支流の金見谷(かなみだに)川上流にある。
 手持ちの道路地図や地図サイトでは、現行の大字名としての表記は「莇生谷」。ただし「くさかんむりに肋」が本来の表記のようで、町史・旧版地形図および「角川」ではここちらで記載。見出しはこれに従った(ちなみに両者はまったくの別字)。
 町史によると、もと谷口(たにぐち)の枝村。享保6(1721)年9戸50人、元文5(1740)年12戸60人、安政2(1855)年7戸38人、明治6年7戸38人、昭和3年0。昭和2年の豪雪に伴う雪崩により、最後まで残っていた村中氏の家屋が倒潰。谷口へ移転し無住となった。ほか明治からの他の6戸の転出先は、町内4・北海道2。
 金見谷で数人に伺った話によると、炭焼きのほか自給自足の水田を作って暮らしていたという。養蚕もしていたか。分かるものでは、村本(むらもと)家・谷口(たにぐち)家。お宮さんもあった。
 最近の地図では道が記載されていないが、実際は車輛での訪問が可能。意外なほど多くの枝道が巡らされている。谷沿いに僅かに農地の跡が見られるものの、屋敷跡の特定はできず。左岸斜面の一部に竹が集まって生えている場所があるが、特に何かがあったという雰囲気ではない。60年くらい前には馬屋や便所の跡地も確認できたというが、現在は跡形もない。
 なお大字荕生谷は近世の今立郡荕生谷村。明治22年下池田村(のち池田村→池田町)の大字となる(角川)。

 


写真1 農地跡

写真2 屋敷跡?

 

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