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◆小原(おはら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「白峯」(昭和32.7)を使用したものである

所在:小松市小原町(おはらまち)
地形図:尾小屋/白峰
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約320m(水面は約330m)
訪問:2011年8月

 

 市の南東部、大日(だいにち)川沿いにある。大日川ダムにより水没した集落。
 古い地図ではすべての家屋は左岸に見られるが、現在は右岸車道沿いに小屋や東屋、地蔵堂、記念碑などがまとまって見られる(写真1-6)。地蔵堂には2体の地蔵が祀られるほか、壁面には文章や地図などが書かれている。
 以下は記念碑の「沿革」の全文。

 小原町の歴史は古く、古老の言い伝えによれば養老二年に人が住み着いたと言われている。集落の起こりは、源平合戦の頃、平家の残党「伊藤孫左衛門」「近藤甚右衛門」の二氏が住み着き、その地形から小原の地名を名づけたと伝えられている。その後、白山麓十八ヶ村が幕府の天領地として保護されていたこともあったと記されており、戸数は明治二十二年市町村制施行の折には五十八戸、昭和三十一年小松市編入の折には三十八戸と記録されている。
 昭和三年六月の大火及び、昭和九年七月の大水害の折も住民が一致協力し、より平和で穏やかな暮らしの出来る集落として、困難を乗り越えて復興してきた。しかし、戦後の食糧難から、平野部の農業用水確保が主目的の国営事業「大日川ダム建設事業」が実施されることに伴い、昭和三十三年十一月十四日、やむなく全町民二百十二名挙げての離村式を行い、それぞれ新天地を求めて旅立ち、閉町となった。
 この度、離村五十周年記念碑建立に当たり、閉町となった経緯及び歴史の一旦(表記ママ)を記し、之を建てる。

 左岸の車道沿いには「観音勢至菩薩之跡」の碑(写真8)があるほか、目立ったものはない。適当な場所から湖面に降りると、所々に遺構らしいものや農地跡などが見られる(写真9-13)。学校の位置は地蔵堂の地図より判明。石を並べた基礎のようなものと、学校との関連は不明。なお学校(新丸(しんまる)小学校小原分校)は明治11年設立(当時小原小学校)、昭和34年閉校(「角川」およびHEYANEKO氏調べ)。
 先述の碑によると、昭和34年4月の在住世帯は以下のとおり(五十音順)。

伊藤11・浦2・尾北4・尾田1・笈谷1・川原2・〓田?(※1)1・小山2・近藤6・田中1・堂1・南1・■場(※2)1・山口2

※1 〓は「鷹」の「广」が「厂」になった字か。撮影画像が不明瞭のため判読できず。「雁」の俗字と思われ、「がんだ」の読みが推測される
※2 「番場」と思われるが、「ばんば」の読みでは順序が不自然。撮影画像も不明瞭のため、別の字の可能性も

 なお「小原町」は近世の能美郡小原村。明治22年新丸村の大字となり、昭和31年小松市の町名となる。明治22年58戸332人、昭和年37戸212人。浄昭寺は矢崎町(やざきまち)へ、小原神社は佐美町(さみまち)へ移転(角川)。

 

≪右岸≫

写真1 碑と東屋

写真2 碑と地蔵堂

写真3 左より灯影(ひかげ)地蔵・身代(みがわ)り地蔵

写真4 壁面の地図

写真5 碑

写真6 社

写真7 湖面
≪右岸≫

写真8 碑

写真9 湖面

写真10 何かの跡

写真11 何かの跡

写真12 学校跡付近

写真13 磁器のかけら

 

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