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◆荻平(おぎだいら?



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「高田東部」(大正3.5)を使用したものである

在:上越市清里区上深澤(かみふかさわ)
地形図:
新井/高田東部
形態:川沿いから斜面にかけて家屋が散在する
標高:180m前後
訪問:2015年11月

 

 大字上深澤の飛び地。別所(べっしょ)川支流の雁平川の上流部にある。
 以下は村史および『清里村五十周年 記念誌・集落誌』より、当地一帯にあった「玄藤寺(げんとうじ)油田」についての記述を抜萃・要約したもの。油田の範囲は荻平玄藤寺(板倉町【現・上越市】)にも及ぶため、記述の内容はこれも含んでいる。

当地は古来から「草生水(くそうず)」(臭水=石油)の産地で、「頸城油田」を構成する油田のひとつ、「玄藤寺油田」の荻平鉱区があった。
文政年間頃より、荻平で「草生水」が地上に自然に溜まり作物を作るのに適さなかったという記録が残されている。
草生水は灯火用に需要が伸び、自噴では間に合わず手掘りの穴(くそうず穴)から採取するようになる。明治に入ってより井戸状のもの(油井)へと次第に転換。
明治11年、明治天皇が高田に御巡幸の際、同行の井上工部卿に荻平の掘削現場の視察を命じる。そこで鉄管による送油・掘削機の機械化の援助を勧告。同年のうちに掘削機による掘削に成功。
明治11年10月、荻平を起点とする「石油運搬之義ニ付鉄管架設願」が県に提出される。これが許可され深澤村字屋敷添まで送油鉄管が完成し、明治12年11月運用開始。これは国内の送油パイプラインの発祥でもある。
人馬の往来・資材の輸送が増えたため、深澤村北端から荻平南端にかけて約1里に亘り道の改修が行われた。明治11年着工、同12年7月竣工。この切石道路は切石を道の中央に敷き並べ、泥濘による通行の障害を緩和した。
明治12年頃には荻平・三ッ又方面の産出量は盛大を極め、各種商店も増え「荻平町」という俗称も生まれた。
荻平には荻平帳場や製油所もあった。製油所はもと帳場付近にあったが、地辷りのため移転。明治23年には塩曽根(しおぞね)へと移転している。
明治23年5月25日、滝沢(たきざわ)等にある稼働中の機械から出火。いったん鎮火するも翌日再燃し、普請小屋・住宅をほぼ全焼。このため平穏を祈念し大地主神・水波能売神・加具土之神を祀った石塔が建てられた。
当地にあった亀井戸坑は、明治から昭和にかけて産出を続け、寿命の長い油井として知られた。
荻平59坑が最後の油井。昭和30年、地辷りや産出量の減少で閉坑。

 現地では屋敷跡を2箇所確認。墓もある。また鋪装道路の終点には「頸城油田荻平臭水貯所」の碑(写真6)がある。集落の少し手前には先述の大地主神等を祀ったた石塔(写真7)があり、これは村史にも掲載されている。

 


写真1 道路沿いの風景


写真2 道路脇の風景

写真3 屋敷跡

写真4 屋敷跡(奥が母屋跡?)

写真5 墓(佐藤氏)

写真6 碑

写真7 石塔。村史にも「荻平三神の石塔」のキャプションで掲載

 

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