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◆柏原(かしわばら



※ この地図は、参謀本部発行の1/50,000地形図「横須賀」(大正10)を使用したものである

所在:逗子市久木(ひさぎ)
地形図:鎌倉/横須賀
形態:谷沿いに家屋が集まる
離村の背景:国軍による接収
標高:約10m
訪問:2024年3月

 

 久木地区の北東部(大字久木)、久木川の上流部にある。
 現在は「米軍池子(いけご)住宅地区及び海軍補助施設」の敷地内だが、「池子自然の森公園」の緑地エリアとして開放されている。

 資料『わたしたちのふるさと久木』およびその続編によると、昭和16年に旧日本海軍の火薬庫用地として買収され全戸が離村したとのこと。
 「ありし日の柏原地区」とする地図には、概ね下流より岩田(こおどり)・福島(※1)・岡部(※1)・関(おもて)・関(いんきょ)・関(やまん台)・福島(なか)・鈴木(惣佐衛門)・飯田(こまもん)・鈴木(伊兵衛)・鈴木(久左衛門)・飯田(やとの前)・飯田(やとのおき)の各家(括弧内は屋号)と、谷に沿って畑や水田が見られる。
 鎮守は柏原明神社(子ノ神社)。また村の入口(字東諏訪)にも東諏訪明神社が鎮座していた。柏原明神社は、移転に伴い久木神社に合祀。
 また集落内には馬頭観音や寛文10(1670)年の庚申塔があったが、移転に伴いそれぞれ妙光(みょうこう)寺と久木一丁目に移設。さらに村の山中で入定した旅の僧と伝わる一心坊の墓があったが、当時の住民によって妙光寺の境内に移された。
 住民の半数は妙光寺、もう半数は鎌倉の本覚寺を菩提寺としていた。
 主な生業は農業。
 明治7年までは独立した柏原村であったが、久野谷村と合併し久木村の一部となった

※1 いずれかが「かじや」もしくは「こうち」

 「角川」によると、当地は室町期より見られる地名で、近世は三浦郡柏原村。明治7年久木村の一部となる。『新編相模国風土記稿』より、江戸時代末期は16戸であったことが分かる。

 市のウェブサイトによると、米軍池子住宅地区及び海軍補助施設は、昭和13年に旧日本海軍が池子の一部(仲川の3世帯)を海軍用地として買収したことに始まる。のち施設昭和15年3月に池子の舞台(ぶたい)八坂の計29世帯、昭和16年11月池子の仲川・花の瀬(はなのせ)計11世帯、同年12月柏原12世帯、昭和17年池子の古戸(ふると)・柳原(やなぎはら)計1世帯、昭和19年5月池子の桟敷戸(さじきど)・花の瀬・柳原計5世帯、昭和20年6月池子の笹倉(ささくら)・東大上(ひがしおおがみ)・西大上(にし―)・星ヶ谷(ほしがや)計8世帯へと拡大した。
 移転を余儀なくされた世帯は計69世帯。うち7世帯は移転先から再度立ち退きを命じられている(※3)
 昭和20年には米軍により接収

 平成26年11月30日、一部の土地(約40ha。のちの池子の森自然公園)の日米共同使用が開始され、同27年1月31日に池子の森自然公園の開園記念式典が開催された。2月1日に池子の森自然公園のスポーツエリアが開園し、続いて旧柏原地区が平成28年3月19日に緑地エリアとして開放された。

※2 地名の読みは資料『池子のあゆみ』より
※3 市史では移転58世帯、再度立ち退きは4世帯となっている

 現地は離村後に弾薬庫などの施設が置かれたこともあり、集落の痕跡はほぼ見られない。ただし、「やぐら」と呼ばれる鎌倉・室町時代に作られた横穴式の墓地の跡が崖地に散見される(写真9・10)。
 なお過去の航空写真では、弾薬庫関連の施設が小さな支流の奥や現在の公園の広場に確認できる。現在でもその痕跡と思われる遺構が見られる(写真13など)。

 


写真1 池子方面からの集落入口。建物はビジターセンター

写真2 支流(盗人の谷)の線路跡(福島家・岡部家付近)

写真3 写真2の消火栓

写真4 グラウンド(水田跡。奥が岩田家跡となる)

写真5 水田跡(のち弾薬庫施設跡。人が集まっている辺りに大きめの痕跡がある)

写真6 関家跡付近

写真7 谷に架かる小橋(中央右下)と塞がれた横穴(中央左上)

写真8 関家跡付近? 看板は「やぐら」の説明板

写真9 「やぐら」のひとつ

写真10 同

写真11 水田跡

写真12 福島家跡付近

写真13 写真12奥の遺構

写真14 鈴木家・飯田家付近

写真15 鈴木家付近

写真16 共用部分の終点。上流の2戸(飯田家)はこの先にあった

 

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