◆楠ヶ浦(くすがうら)
※ この地図は、参謀本部陸軍部測量局発行の1/20,000地形図「横須賀町」(明治21.4)および参謀本部発行の1/5,0000地形図「横須賀」(大正10)を使用したものである
所在:横須賀市楠ヶ浦町(くすがうらちょう)
地形図:横須賀/横須賀
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m
訪問:2024年3月
現在の楠ヶ浦町の東部にあった集落。
現在は米軍施設(横須賀海軍施設)の敷地内で現地を訪れることはできず、三笠(みかさ)公園より集落跡の方向を望んだのみ。
市史および市のウェブサイトによると、慶応元(1885)年に現在の稲岡町(いなおかちょう)・楠ヶ浦町・本町(ほんちょう)一帯に製鉄所(後の横須賀造船所)が建設されたことにより、横須賀港の歴史が始まったとのこと。明治17年(1884年)に鎮守府(日本海軍の拠点)が横浜から移転して以降は、軍港として発展を遂げた。昭和20年9月2日、米軍により接収。
市史より、当地に関連のあった施設を以下に挙げる。
・フランス人居住区(稲岡町・楠ヶ浦町)
横須賀製鉄所建設にあたって雇われたフランス人技術者のための居住区。明治3年頃には形成された。製鉄所表門近くにあり、広場を中心として官舎・天主堂・集会所が並んでいた。
・造船所の工場(楠ヶ浦町・本町)
鋸鉋工場(明治元年竣工)・錬鉄工場(同2年)・製缶工場(同年)・鋳造工場(同3年)・製帆工場・船具工場・填隙工場・製綱工場など。
・ドライドック(乾船渠)(楠ヶ浦町)
修理や管理のため、水を抜くことができるドック。幕末から昭和にかけて建設された。
・黌舎(楠ヶ浦町・本町)
造船事業に携わる人材を養成する教育施設で、フランス人による教育が行われていた。明治3年3月29日開設、同22年5月海軍造船工学校に改編。
・米海軍横須賀基地(稲岡町・楠ヶ浦町・泊町ほか)
元々は旧日本海軍の一大拠点であったが、昭和20年8月30日の連合国軍上陸以降、米海軍の管理下に置かれている。平成23年3月現在、基地内には海陸軍人7,707人、同軍属513人、同家族4,658人が居住。
市のウェブサイトより、地内で海上自衛隊が米軍と共同使用している施設には対潜資料隊庁舎・第2潜水隊群庁舎・横須賀造修補給所があることが分かる。いずれも旧海軍工廠に所在。
文献『横須賀案内記』(大正4年刊行)によると、当地には寺院として光心(こうしん)寺があったとのこと。山号は長峯山。創建年月不詳。開基は清誉安という。
また当地に関して「楠ヶ浦は丘陵に隔てられ、濕ヶ谷(しめりがや)の險阪若くは白濱の崖路に由り、横須賀市街と連絡を通じたる、戸數六十餘を有する別天地なりしが…(略)」とある。
この交通の不便は、明治25年5月に隧道が完成し解消した。これは土地の有志小林与兵衛・大塚静喜等の諸氏により、横須賀町の補助金と住民の寄付金を得て造られたもの。
なお隧道は楠ヶ浦・白浜の埋め立ての際に切り崩されたため、現在は消失しているとのこと(市史より)。
資料『現代の横須賀』(大正4年刊行)には、当地に関する記述に「泊里港から南數町に方り三十四戸の一部落をして居た」や、光心寺について、「楠ヶ浦の隧道に入ると老樹葉青く幹蟠れるを見る、其方に淨土宗光心寺が寂びを帶て寧ろ蒼然由緒を譚つて居る」とある。
また明治以前の漁業について、「漁業は其沿海の各字によつて多少漁具及漁撈の方法を異にして楠ヶ浦、泊里等の漁夫は手繰網、六人網と稱する漁具によって、イワシ、コノシロ、ボラ、ホウボウ、セイゴ、キス、ヒラメ、タコ、ネヅ等を漁獲し…(略)…殊に多大の盛榮を告げて居たのである」とあり、さらに小林与兵衛氏は、幕府の徳川氏に御用鯛の飼養を命じられ、小川の沖合や内浦、浦賀等に籠を分けて育てて、鯛を上納していたという。
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