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◆箱崎(はこざき)(仮称)



※ この地図は、参謀本部発行の1/50,000地形図「横須賀」(大正10)を使用したものである

所在:横須賀市箱崎町(はこざきちょう)
地形図:横須賀/横須賀
形態:海沿いに家屋が散在する?
離村の背景:国軍による接収
標高:数m
(訪問:2024年4月)

 

 横須賀本港の西岸、吾妻(あづま)島にあった集落。島はかつて陸続きの半島(箱崎半島)であったが、水路の開鑿により島となった。全島をもって箱崎町域を形成している。
 米軍施設(吾妻倉庫地区)の敷地内で関係者以外の立ち入りはできないが、軍港巡りの観光船より近距離で望むことができる。

 市のウェブサイトによると、往時は半島の北部海岸から吾妻(あづま)山の東の荒井海岸にかけて漁業を営む民家があったたとのこと。江戸時代になり、東京湾を往来する船で賑わうにつれて、当地も江戸航路の船着場になった。
 明治10年横須賀港が軍港に指定され、のち箱崎は明治15年に砲台建設のため陸軍に買い上げられた。
 明治33年に海軍に買収され、信号所や測候所が造られたため、漁業を営んでいた民家は海軍に土地を買い上げられ、田ノ浦地区などへ移転。
 昭和20年9月2日、米軍により接収。当時は旧日本海軍吾妻島燃料・弾薬貯蔵所として使用されていた。
 現在は米海軍の管理下で航空機燃料・艦船燃料等の貯油施設として使用されており、島内には37基のタンクが設置されている。

 安政元(1854)年、公郷(くごう)村名主・永嶋庄兵衛により半島に377mの掘割が掘鑿された(旧掘割)。半島先端付近には暗礁があり航行に危険が伴っていたが、掘割の完成により野島浦(現在の横浜市金沢区)から横須賀村への安全な航路が確保された。
 のち明治18年に長浦(ながうら)に海軍の諸施設が置かれてから横須賀港との交通が頻繁になり、交通に不便となったため、鎮守府は新しい水路を掘鑿するよう横須賀造船所に依頼。明治22年に完成し、現在の吾妻島が形成された。なお旧掘割は新掘割の完成に伴い埋め立てられている。

 半島内の吾妻山には、かつて日本武尊・弟橘媛命を祭神とする吾妻社があり、「吾妻権現」として多くの人から敬われていた。明治6年には村社となっている。明治32年一帯が海軍用地として買収されたため、明治33年、現在地(長浦町5丁目)に遷し社殿を改築した。
 また半島内には天照大神を祭神とする長浦神明社があり、「箱崎明神」といわれ長浦村の鎮守であった。創建は不詳。明治13年に箱崎が海軍用地となって買収されたため、長浦村の字西の浦浜に移されたが、ここも鉄道によって参道を断たれて危険になったため、昭和25年現在地に遷座した。

 市のウェブサイトより、地内で海上自衛隊が米軍と共同使用している施設には吾妻島貯油所・吾妻島信号所・横須賀弾薬整備補給所吾妻島整備施設(以上、旧海軍箱崎貯油所に所在)・弾薬庫敷地・給油施設用地があることが分かる。

 「角川」によると、「箱崎町」は昭和27年成立の町名で、もと長浦の一部。町名は長浦の小字による。

 なお特定の集落名もしくは広域地名が判然とせず、見出しは仮称とした。

 


写真1 島遠景(東側より撮影)

写真2 新井(荒井)掘割

写真3 「荒井」付近

写真4 島の東部

写真5 島の北東部

写真6 島の北部

写真7 島の北西部(大地ノ鼻付近)

写真8 島の南西部

 

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