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◆不津倉(ふづくら



※明色部
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「八王子」(昭和28.9)を加工し使用したものである

在:相模原市緑(みどり)区中野(なかの)
地形図:八王子/八王子
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約100m(水面は約120m)
訪問:調査は2009年3月

 

 津久井湖に水没した集落。三井(みい)大橋西詰の南で、相模(さがみ)川の右岸にある。
 現在でも湖面まで降りる道が残っている。末の叔父は、三井(みい)小学校(塩民にあった)廃校後、この道を通るスクールバスに乗って中野小学校まで通っていたという。現在は徒歩でのみ通れるが、かつてはある程度の道幅があったことが窺える

 27戸。佐藤・長田の両姓だけだが、寺(有林寺)だけはその両方を取って藤田といった。戦時中に疎開してきた家が1戸ある(資料「津久井湖誕生」より)。
 江戸期集落が富み栄えていたことから富津倉と小字名で記したという(資料「つくい町の地名」より)。

 資料『津久井町郷土誌』には中野の小字として「南不津倉」「北不津倉」が見られるが、字地の全域が水没しているよう(それぞれ地番639-752、753-891)。石造物として、馬頭観世音(多数)・秋葉供養塔(灯籠)・六地蔵尊・道祖神・廿三夜塔・六字名号塔・萬霊塔・観世音供養塔のほか、「御大典水道記念碑」があった。
 友林寺は山号医王山、宗派は臨済宗。大智恵通禅師により開山。不津倉の北端に位置した。ダム建設のため移転し、昭和39年4月落慶入仏の式典が行われた。

 また『津久井湖周辺文化財調査資料 水没地ならびにその周辺よもやまばなし』によると、武田氏と北条氏が三増峠で合戦をした際、武田軍から脱落した武士が当地の祖先であると伝わるという。集落は26戸。昔から佐藤氏・長田氏ばかりであったが、集落内の道路を境として山側が長田氏、川側が佐藤氏とはっきりと分かれていた。ダム工事の際は、最後まで立ち退きを承諾しなかったという。
 友林寺の創建は、康暦元(1379)年。津久井三十三所観音霊場の
第8番目。境内の薬師堂は、4代目の住職が文禄年間に川坂から移したもの。

 


(写真1 ダム堰堤)(2022年撮影)


写真2 降り口から見た水面


写真3 集落付近のジオラマ(津久井湖記念館にて。2014年撮影)

 

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