◆宇津木(うつき・うつぎ)
所在:八丈町宇津木
八丈小島の南東部にある。昭和44年、全島離村が行われ鳥打とともに無住となった。 八丈島の南原(なんばら)千畳敷には「八丈小島忘れじの碑」(2014年11月、八丈小島を偲ぶ有志一同および八丈島ライオンズクラブによる設置)(写真37)があり、元鳥打村村長の鈴木文吉氏が詠んだ詩が刻まれている。碑に用いられた石は、八丈島内で産出されたもので小島の形に似たものが選ばれたとのこと(宿の方の話より)。以下は碑文と詩。 この沖合に望む八丈小島は、一九六九年三月、過疎化と高齢化により全島民が離島を余儀なくされた。 離島四十五周年にあたり、数百年に及ぶ旧島民の艱難辛苦を偲んで「八丈小島忘れじの碑」を建立する。 五十世に暮らしつづけた我が故郷よ
また交通は、町の定期船が月に4回。八丈島の八重根港から小型発動機船で約40分。定期便は当地を経由した後、さらに鳥打とを結んでいた。最初は町営であったが、昭和32年から東海汽船に委託。しかし黒潮や冬季の西風の影響など、少し海が荒れると欠航することが多かった。 書籍『ふるさとはヤギの島に』によると、島の主食はサツマイモ(地方名「カンモ」)で、耕地の9割はサツマイモであったという。また戦中まではヒエ・アワ・大根・カブなども作られていた。周辺にはアシタバが群棲しており、食料に困ったときでも青物は手に入れることができた。昭和36年当時、人口43人。 書籍『島々の聖地』によると、当地の祭祀場は平成3年に海洋信仰研究会によって調査され、17基の祭祀遺構が確認された。伝説では、工藤(狩野)茂光に攻められた源為朝が大島の配所から八丈島に逃れ、八丈小島で寄手を迎撃した後自刃したと伝えられる。村人は小島の坪沢に為朝神社を祀り、後に現在地に移転した。 「角川」によると、大字宇津木は近世の宇津木村(伊豆国のうち)。明治以降も一村として存続し、昭和30年八丈村の大字となる。鳥打村とともに江戸期以来の名主制度が存続し、名主の合議制が昭和22年まで続いた。寛永11(1634)年神主百姓20軒・小屋持3軒・流人小屋1軒。明治10年30戸222人、昭和28年50人。 なお案内していただいた船主(鳥打出身)によると、八丈島に比べ土壌が良く(土質が古い。小島は黒土・八丈島は赤土)、トウモロコシやサツマイモなど様々な作物ができたという。水は天水に頼り、1戸に1基ずつの水槽があった。
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写真1 集落遠景 |
写真2 船着場遠景 |
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写真3 船着場と階段 |
写真4 かつての泊地と船揚場 |
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写真5 泊地からの船揚場の道。奥は八丈島 |
写真6 祭祀遺跡群跡 |
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写真7 祭祀遺跡の一部 |
写真8 同 |
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写真9 同 |
写真10 同 |
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写真11 同 |
写真12 同。石積みの内側に小祠 |
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写真13 貯水槽 |
写真14 倉庫跡 |
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写真15 巻上機小屋 |
写真16 高みからの風景。右はテングサの干場 |
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写真17 船着場−集落間の道 |
写真18 墓地 |
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写真19 墓地にて |
写真20 同 |
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写真21 同 |
写真22 同。墓石が道に埋没している |
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写真23 同 |
写真24 同 |
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写真25 宅地入口 |
写真26 宅地入口 | ||||||||
写真27 学校。門柱 |
写真28 同。校庭と校舎跡 | ||||||||
写真29 同。校庭 |
写真30 同。発電用風車跡 | ||||||||
写真31 宅地の石垣と道 |
写真32 道 | ||||||||
写真33 神社の参道 |
写真34 石柱。「御神燈」「嘉永二己酉年八月吉日」とある | ||||||||
写真35 神社跡 |
(写真36 小島遠景。宇津木は左端) | ||||||||
(写真37 碑と八丈小島。「八丈小島忘れじの碑」は右。〔左は野口雨情の歌碑〕) |