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◆鳥打(とりうち)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「八丈島」(昭和30.3)を使用したものである

所在:八丈町鳥打
地形図:八丈小島/八丈島
形態:海沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約60〜90m
訪問:2019年5月

 

 八丈小島の北西部にある。昭和44年、全島離村が行われ宇津木とともに無住となった。
 訪問は八丈島の八重根(やえね)港より渡船を利用。船揚場から上がってすぐの平坦地には、宇津木と同様に祭祀関連の痕跡が広く見られる。船揚場から集落の入口付近までは緩やかで幅のある道が続いているが、この時は農地跡を横切る小道を利用。集落の入口付近で先ほどの道と合流する。
 集落は宇津木に比べ荒廃が少なく、宅地跡も様子を把握しやすい。学校跡(写真29-32)は集落の中ほど。神社跡は集落の上手にある。
 宇津木の道は都により草刈りが行われているが、鳥打においては行われず、船主(鳥打出身)が度々刈り払いを行っているとのこと。


 八丈島の南原(なんばら)千畳敷には「八丈小島忘れじの碑」(2014年11月、八丈小島を偲ぶ有志一同および八丈島ライオンズクラブによる設置)があり、元鳥打村長の鈴木文吉氏が詠んだ詩が刻まれている。碑に用いられた石は、八丈島内で産出されたもので小島の形に似たものが選ばれたとのこと(宿の方の話より)。以下は碑文と詩。

 この沖合に望む八丈小島は、一九六九年三月、過疎化と高齢化により全島民が離島を余儀なくされた。
 離島四十五周年にあたり、数百年に及ぶ旧島民の艱難辛苦を偲んで「八丈小島忘れじの碑」を建立する。

 五十世に暮らしつづけた我が故郷よ
 今日を限りの故郷を
 かい無き我は捨て去れど
 次の世代に咲かして花を


 資料「昭和43年度伊豆諸島調査報告書」によると、離村までの経緯は以下のとおり。

 昭和41年

 「全島民引揚げ移住」の請願が3月18日付で八丈町議会に提出される(5月)
 町長より都へ協力の申し入れ(6月)
 町による現地調査(8月)
 「小島引揚げ対策協議会」にて私有地買収問題を協議(9月)

 昭和42  島民代表、町と受け入れ態勢について討議。町は引揚げを推進するため委員会を設け、「小島引揚げ対策要綱」を作成(6月)
 都、全島民を移住させる基本方針決定(10月)
 島民代表、町と引揚げ条件について討議。交渉は合意に達せず(11月)
 昭和43  都、年度内予算での小島買い上げ決定(1月)
 「八丈小島住民引揚げ要項」提示。最終の話し合いとなる(9月)
 昭和44  移住完了(3月)

 また交通は、町の定期船が月に4回。八丈島の八重根港から宇津木を経由し、鳥打までを結んでいた。最初は町営であったが、昭和32年から東海汽船に委託。しかし黒潮や冬季の西風の影響など、少し海が荒れると欠航することが多かった。
 島は水に乏しい。土壌は溶岩が多く耕地を得られないので、切替畑が多い。また漁業は港湾施設が整っていないため
磯漁以外に頼ることが困難で、海陸ともに資源に乏しい。
 学校は鳥打小学校・鳥打中学校があった。昭和42年当時、小学生7名、中学生7名、小中併せて教職員8名。『八丈島誌』によると、いずれも昭和44年閉校。中学校は昭和22年に開校(小学校に併置)。

 書籍『ふるさとはヤギの島に』によると、島の主食はサツマイモ(地方名「カンモ」)で、耕地の9割はサツマイモであったという。また戦中まではヒエ・アワ・大根・カブなども作られていた。周辺にはアシタバが群棲しており、食料に困ったときでも青物は手に入れることができた。
 海側の平坦地を「ハマンタイラ」と呼び、ここには漂流民や流人などを供養する祠が置かれていた。山の中腹から下に向かって上浦(かみうら)・中浦(なかうら)・下浦(しもうら)の3地区に分かれていた。昭和36年当時、人口85人。

 書籍『島々の聖地』によると、当地の祭祀場は、平成3年に海洋信仰研究会によって調査され、10基におよぶ祭祀遺構が確認されている。祭祀場からは多数の遺物が発見されたが、陶磁器や柄鏡・鰐口・鈴・仏飯器などの銅製品、寛永通宝などの銭貨、ガラス鏡など年代的には幅広い。
 戸隠(とがくし)神社は氏子の間では「チョウサマ」と呼ばれていた。チョウサマの境内は、祭礼の時以外は何人たりとも入ることを許されない聖域であり、住民のチョウサマに対する態度はきわめて敬虔であった。以前には女神である「バゴデサマ」が祀られており、後に戸隠明神と夫婦神として合祀された。どのような経緯で内地から伝来した戸隠神社が勧請されたのかは不明。

 「角川」によると、大字鳥打は近世の鳥打村(伊豆国のうち)。明治以降も一村として存続し、昭和29年八丈村の大字となる。鳥打村とともに江戸期以来の名主制度が存続し、名主の合議制が昭和22年まで続いた。寛永11(1634)年百姓39軒・小屋持4軒・流人小屋2軒。明治10年50戸282人、昭和28年108人。

 なお案内していただいた船主(当地の出身者。中学校卒業まで居住)によると、八丈島に比べ土壌が良く(土質が古い。小島は黒土・八丈島は赤土)、トウモロコシやサツマイモなど様々な作物ができたという。水は天水に頼り、1戸に1基ずつの水槽があった。ほか集落上部には大型の共同の貯水槽がある。
 海産物としてテングサを収穫し、東京方面に出荷した。鳥打には磯に砂地があるため、ここを干し場とした(宇津木の干し場は高台の砂利地)。
 炭焼きは自家用のもののみ行われた。
 
鳥打−宇津木間には生活道が2本。島の東部の崖沿いを通るものは1時間かかり、太平山(おおたいらさん)を経由するものは2時間かかった。また太平山山頂付近には牧場があったとのこと。

 


写真1 集落方面遠景。右に船着場

写真2 船揚場(集落への道につながる)

写真3 同

写真4 磯。テングサの干場でもあった

写真5 巻上機小屋

写真6 祭祀遺跡

写真7 同

写真8 同

写真9 同

写真10 同

写真11 同


写真12 同


写真13 写真12の石造物

写真14 集落への道

写真15 畑跡

写真16 墓地にて

写真17 同

写真18 同

写真19 同

写真20 道

写真21 屋敷跡

写真22 宅地入口

写真23 同

写真24 水槽

写真25 宅地入口

写真26 同

写真27 同

写真28 水槽

写真29 学校。門柱

写真30 同。校舎跡

写真31 同。校舎跡にて

写真32 同。校庭

写真33 宅地入口

写真34 水槽

写真35 地蔵。覆いには「昭和丗十二年九月十五日」とあり、浅沼氏2名が記されている

写真36 宅地入口

写真37 屋敷跡にて

写真38 宅地入口

写真39 共同貯水槽(地面のような部分も槽の一部)

写真40 神社境内のツバキ林

写真41 神社跡

写真42 同。小祠

写真43 同。石造物

写真44 同。石板。「奉納 戸隱神社」「昭和十五年四月吉日」とある

写真45 同。石塔群

(写真46 小島遠景。鳥打は右端)

(写真47 碑と八丈小島。「八丈小島忘れじの碑」は右。〔左は野口雨情の歌碑〕)

 

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