◆鳥打(とりうち)
所在:八丈町鳥打
八丈小島の北西部にある。昭和44年、全島離村が行われ宇津木とともに無住となった。
この沖合に望む八丈小島は、一九六九年三月、過疎化と高齢化により全島民が離島を余儀なくされた。 五十世に暮らしつづけた我が故郷よ
「全島民引揚げ移住」の請願が3月18日付で八丈町議会に提出される(5月)
また交通は、町の定期船が月に4回。八丈島の八重根港から宇津木を経由し、鳥打までを結んでいた。最初は町営であったが、昭和32年から東海汽船に委託。しかし黒潮や冬季の西風の影響など、少し海が荒れると欠航することが多かった。 書籍『ふるさとはヤギの島に』によると、島の主食はサツマイモ(地方名「カンモ」)で、耕地の9割はサツマイモであったという。また戦中まではヒエ・アワ・大根・カブなども作られていた。周辺にはアシタバが群棲しており、食料に困ったときでも青物は手に入れることができた。
書籍『島々の聖地』によると、当地の祭祀場は、平成3年に海洋信仰研究会によって調査され、10基におよぶ祭祀遺構が確認されている。祭祀場からは多数の遺物が発見されたが、陶磁器や柄鏡・鰐口・鈴・仏飯器などの銅製品、寛永通宝などの銭貨、ガラス鏡など年代的には幅広い。 「角川」によると、大字鳥打は近世の鳥打村(伊豆国のうち)。明治以降も一村として存続し、昭和29年八丈村の大字となる。鳥打村とともに江戸期以来の名主制度が存続し、名主の合議制が昭和22年まで続いた。寛永11(1634)年百姓39軒・小屋持4軒・流人小屋2軒。明治10年50戸282人、昭和28年108人。 なお案内していただいた船主(当地の出身者。中学校卒業まで居住)によると、八丈島に比べ土壌が良く(土質が古い。小島は黒土・八丈島は赤土)、トウモロコシやサツマイモなど様々な作物ができたという。水は天水に頼り、1戸に1基ずつの水槽があった。ほか集落上部には大型の共同の貯水槽がある。 海産物としてテングサを収穫し、東京方面に出荷した。鳥打には磯に砂地があるため、ここを干し場とした(宇津木の干し場は高台の砂利地)。 炭焼きは自家用のもののみ行われた。 鳥打−宇津木間には生活道が2本。島の東部の崖沿いを通るものは1時間かかり、太平山(おおたいらさん)を経由するものは2時間かかった。また太平山山頂付近には牧場があったとのこと。
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写真1 集落方面遠景。右に船着場 |
写真2 船揚場(集落への道につながる) |
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写真3 同 |
写真4 磯。テングサの干場でもあった |
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写真5 巻上機小屋 |
写真6 祭祀遺跡 |
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写真7 同 |
写真8 同 |
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写真9 同 |
写真10 同 |
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写真11 同 |
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写真13 写真12の石造物 |
写真14 集落への道 |
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写真15 畑跡 |
写真16 墓地にて |
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写真17 同 |
写真18 同 |
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写真19 同 |
写真20 道 |
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写真21 屋敷跡 |
写真22 宅地入口 |
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写真23 同 |
写真24 水槽 |
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写真25 宅地入口 |
写真26 同 |
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写真27 同 |
写真28 水槽 |
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写真29 学校。門柱 |
写真30 同。校舎跡 |
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写真31 同。校舎跡にて |
写真32 同。校庭 |
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写真33 宅地入口 |
写真34 水槽 |
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写真35 地蔵。覆いには「昭和丗十二年九月十五日」とあり、浅沼氏2名が記されている |
写真36 宅地入口 |
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写真37 屋敷跡にて |
写真38 宅地入口 | ||||||||
写真39 共同貯水槽(地面のような部分も槽の一部) |
写真40 神社境内のツバキ林 | ||||||||
写真41 神社跡 |
写真42 同。小祠 | ||||||||
写真43 同。石造物 |
写真44 同。石板。「奉納 戸隱神社」「昭和十五年四月吉日」とある | ||||||||
写真45 同。石塔群 |
(写真46 小島遠景。鳥打は右端) |
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(写真47 碑と八丈小島。「八丈小島忘れじの碑」は右。〔左は野口雨情の歌碑〕) |