◆羽根倉(はねくら)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「大宮」(明治43)を使用したものである
所在:さいたま市桜(さくら)区下大久保(しもおおくぼ)/志木市宗岡(むねおか)
地形図:与野/大宮
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:数m
訪問:20016年3月
荒(あら)川沿いにある地域で、現在の羽根倉橋の付近。左岸(浦和側)は大字下大久保の中西部、右岸(志木側)大字宗岡の北部にあたる。
資料『荒川の水運』や浦和市史によると、舟運の拠点であった河岸(かし)が置かれていたとのこと(羽根倉河岸)。河岸場では東京方面から運ばれてきた食料(砂糖・塩・酒・油など)・肥料・日用雑貨などを搬入し、糸や反物、食料(米・麦・醤油・味噌等)を搬出していた。しかし鉄道や道路の開通により衰退、さらに大正期の荒川改修工事に伴い大正8年に廃止された。
また渡船場(羽根倉の渡し)もあり、中世より重要な渡河地点であった。与野市中心部【現・さいたま市中央区】と下大久保を結ぶ道は羽根倉道と呼ばれ、この渡し場を通じて物資が行き来していた。大正の荒川改修の後も運営され、昭和13年に羽根倉橋が架設されるまで続けられた。当時の羽根倉橋は、下流の秋ヶ瀬橋の古材を再利用したものであると伝わっている。現在のものは昭和48年に完成。
大正初期には浦和側に21戸、志木側に10戸ほどの人家があった。河岸場や集落には船頭相手の料理店や、飲み屋・駄菓子屋・船問屋などがあり、船大工・船頭・農家が暮らしていた。個人所有の古地図(摸写)により、この集落は元禄年間には既に存在していることが分かっている。
現在は浦和側が河川敷の荒地やゴルフコースとなっており、志木側は運動公園。一部には農地もあるが、往時の住民が耕作していたものだろうか。また羽根倉古戦場の看板(写真5)が立ち、南北朝時代にここで戦があったことを伝えている。
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