◆縄竹(なわたけ・なわだけ)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「青梅」(明治42)を使用したものである
所在:入間市宮寺(みやでら)字縄竹ほか
地形図:所沢/青梅
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約110m前後(水面は約110m)
訪問:2019年3月
大字宮寺の南部、柳瀬(やなせ)川上流部にある。現在は山口貯水池(通称狭山(さやま)湖)に一部が水没。
以下は資料『縄竹いまむかし』より、当地に関する概要。
集落の発祥時期は不明だが、弘安3(1280)年の板碑が発見されており、この頃には既に居住があったよう。
大まかに東側の下縄竹、西側の上縄竹に分かれる(このうち下縄竹の一部が水没地域)。
集落内の共同施設として、集会所(通称「堂」)・墓地(上縄竹・下縄竹のほか、個人のものも3箇所)・水車小屋があった。
神社は山祇神社および第六神社。また字聖天平(しょうてんだいら)には「聖天様」の社殿が祀られていたが、移転に伴い遷座。
生業は主に農業で、陸稲・小麦・柿(禅寺丸(ぜんじまる)種)を産出。ほか養蚕も盛ん。僅かだが茶の生産を行う家もあった。野菜類はほとんど自家用。農閑期には女性による木綿絣の製造も行われていた。ほか雑貨店兼馬方(運送業)を営む家が1軒(後述のNo.18)、押し絵雛の製造が1軒(No.33)。
柳瀬川に沿って瑞穂町と所沢市を結ぶ主要道が通り、田や家屋が点在。主要道からは丘陵を越える3本の道があり、上から「五郎右衛門坂」「縄竹新道」「おまん坂」と呼ばれた。このうち縄竹新道は大正7年に開鑿され、荷車での山越えが可能になった。 通学は宮寺小学校。昭和5年当時の児童数は男21名、女22名。五郎右衛門坂や縄竹新道で丘陵を越え、片道2、3qの道のりを通っていた。 旧宮寺村では大正6年に初めて電灯が導入されたが、当地では移転まで導入されることはなかった。
生活用水については、丘陵からの豊富な湧き水や井戸水を使用。
昭和2年、東京市(当時)の上水道の貯水池の候補地となり、宮寺村より協力の要請を受ける。移転交渉は難航しながらも最終的にはこれに応じ、住民は新しい耕作地と移住地の取得に奔走することとなった。昭和3年、代替耕作地が旧東金子村内、石川幾太郎氏の所有地に決定(通称石川農場)。移住地が現在の縄竹地区に決定したのは昭和4年4月のことで、移転は昭和5年より行われた。全戸一所への移住はならず、現縄竹地区に24戸、宮寺小学校付近に2戸、旧東金子村(石川農場)4戸、旧元狭山村2戸、西所沢・藤沢・石畑・横浜に各1戸となった(※1)。
山口貯水池は昭和4年着工、同7年10月完成(ダム建設の詳細については山口貯水池のページを参照)。 集会所(「堂」)は昭和5年春現在地に移転。同51年建て替え(現在の縄竹公会堂)。
移転後の新生縄竹地区は昭和12年24戸であったが、平成23年現在では325戸となり、宮寺の自治会では2番目に大きな規模になっている(初期の24戸のうち22戸が継続して在住)。現在でも地区住民による納涼大会が行われており、これは市内においても盛大な夏祭りの一つとなっている(※2)。
※1 藤沢は旧藤沢(ふじさわ)村(入間郡)、石畑は旧石畑(いしはた)村(東京府西多摩郡)と思われる。横浜は神奈川県横浜市
※2 平成23年で30回目であることが窺えるが、開始時期は不明
以下は往時の居住者(昭和5年移転時。本文掲載順〔=概ね下流側より〕)。
地区 |
番号 |
姓 |
屋号 |
移転先 |
備考 |
下縄竹 |
1 |
田中 |
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不明 |
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2 |
山崎 |
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現縄竹地区 |
No.32系統の分家 |
3 |
石川 |
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東金子 |
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4 |
山崎 |
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5 |
石川 |
大橋
(柳瀬川に架かる石橋の近く) |
藤沢(※3) |
No.26系統の分家 |
6 |
田中 |
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現縄竹地区 |
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7 |
石川 |
|
不明 |
|
8 |
田中 |
|
現縄竹地区 |
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9 |
山崎 |
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所沢市 |
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10 |
田中 |
奈賀屋 (ながや)
(中心の家〔=中屋〕) |
現縄竹地区 |
田中家の総本家か |
11 |
石川 |
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〃 |
No.26系統の分家 |
12 |
〃 |
|
〃 |
〃 |
13 |
田中 |
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|
14 |
〃 |
|
現縄竹地区 |
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15 |
〃 |
|
〃 |
|
16 |
〃 |
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不明 |
家なし |
17 |
石川 |
|
東金子 |
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18 |
〃 |
新光
(店があった場所の地名) |
宮寺荻原 |
雑貨商・馬方 |
19 |
〃 |
たかみ
(本家〔坂下〕の裏の小高い所にあった) |
現縄竹地区 |
No.26系統の分家 |
20 |
〃 |
|
〃 |
〃 |
21 |
〃 |
坂下
(「おまん坂」の下にあった) |
〃 |
〃 |
22 |
〃 |
坂西
(「おまん坂」の西にあった) |
〃 |
〃 |
上縄竹 |
23 |
〃 |
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宮寺荻原 |
〃 |
24 |
〃 |
|
現縄竹地区 |
〃 |
25 |
〃 |
|
〃 |
〃 |
26 |
〃 |
大尽
(資産家であった) |
〃 |
石川家の小本家 |
27 |
〃 |
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〃 |
No.32系統の分家 |
28 |
〃 |
|
〃 |
〃 |
29 |
〃 |
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二本木 |
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30 |
大野 |
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現縄竹地区 |
平成15年、現縄竹地区より転出 |
31 |
〃 |
とうふ屋
(元禄の頃に豆腐を作っていたといわれる) |
〃 |
大野本家 |
32 |
石川 |
先生(※4) |
〃 |
石川家の小本家。教員ののち出雲祝神社神主 |
33 |
〃 |
ひなや
(押し絵雛の製造をしていた) |
東金子 |
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34 |
〃 |
へび新(※4) |
神奈川県横浜市 |
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35 |
〃 |
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現縄竹地区 |
石川家の総本家といわれる |
36 |
〃 |
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東金子 |
|
37 |
〃 |
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不明 |
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38 |
大野 |
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跡地 |
39 |
〃 |
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跡地 |
40 |
? |
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跡地 |
41 |
大野 |
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現縄竹地区 |
平成13年、現縄竹地区より転出 |
42 |
久保田 |
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〃 |
勝楽寺より転入 |
※3 原文では現縄竹地区へ移住している表現にもなっており、経緯が不明
※4 本文での解釈に拠ったが、「先生」は宮寺小学校の教員、「へび新」はマムシなどの蛇を捕まえて東京方面に売りに行っていた「新吉さん」で、個人としての通称の意味合いが強いと思われる
また以下は、同書から引用の記念碑の碑文(字体等、実物とは異なる可能性がある)。
宮寺村舊縄竹ハ縣ノ南端東京府ニ接シ山口村ノ西ニ隣スル山間ノ一小村落ニシテ戸數三十三戸南北ニ丘陵ヲ控ヘ柳瀬川其中央ヲ流レ山水明媚閑静ニシテ村民質素共同一致殊ニ愛郷心ニ富ミ土地肥沃ニシテ農作物能ク繁茂シ砂礫壤土ナルガ故ニ果樹ノ栽培ニ適シ殊ニ柿ハ此地ノ名産ニシテ其味優秀年産額數千円ニ上ル頗ル生活シ易キ所ナリキ昭和二年東京市ノ水道擴張設計成リ第二貯水池トシテ山口村ヲ指定スルニ當リ縄竹ハ其區域内ニ屬シ將ニ買収セラレントスルヤ村民先祖累代住ミ馴レシ墳墓ノ地ヲ去ルニ忍ビズ再三委員ヲ上京セシメ陳情セシモ遂ニ昭和三年買収セラルルノ止ムヲ得サルニ至レリ茲ニ於テ耕作地トシテ東金子村上原ニ求メ居所ヲ定ムルニ當リ各自東奔西走其意志ニヨリ随所ニ轉居スル事トナレリ依テ同志ノ者二十有四戸永年ノ情忘レ難ク相會シ行ヲ共ニスヘク當所ヲ相スルニ當リ村有志者並ニ地主ノ同情ト諒解トニヨリ當地約五町歩ヲ得テ茲ニ始メテ一所ニ居ヲ定ムルニ至リ昭和五年工事ニ着手シ同年十二月十五日移轉披露式ヲ舉ケタリ爾来移轉經營ニ寢食ヲ忘レ亦寧日ナシ茲ニ漸ク一小村落ヲ形成スルコトヲ得タリ依テ其由來ノ概略ヲ刻シテ記念トス
訪問についてはまず集落跡地に近い北側の左岸より試みたが、門扉(写真5)により湖面に近づくことができず。
改めて南側の東京都武蔵村山市方面より訪問。三ツ木(みつぎ)四丁目北端の「御判立(ごはんだて)」と呼ばれる地点より一般開放された道路が通じており、徒歩による到達が可能であった。ただし道の両側に設けられた柵により山林に立ち入ることはできず、集落東部も門扉(写真12)により進入不可。道路から周囲を一瞥するにとどまり、明確な生活の痕跡を確認することはできなかった。
また移転後の縄竹地区には公会堂(写真13)があるが、その敷地内には昭和5年の移転当時に設置された「移轉記念碑」(写真14)が建つ(碑文は先のとおり)。
なお武蔵村山市内で2名から聞き取りを行ったが、呼称は「なわだけ」であった。
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