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◆明家(みょうけ)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「万場」(昭和15.7)を使用したものである

在:神流町神ケ原(かがはら)
地形図:両神山/万場
アクセント:ミョーケ
形態:山中に家屋が集まる
標高:約820m
訪問:2020年11月

 

 大字神ケ原の南西部。烏頭沢(神流(かんな)川支流)の右岸斜面にある。
 現地には林道烏頭沢
経由の車道が通じているが、訪問時は四輪車による通行が不能であったため間物(まもの)方面より徒歩で向かった。なおこの道は秩父方面と長野方面を結ぶ街道であったよう。
 集落に通じる山道はしっかり造られており、かつては多くの往来があったことを窺わせる。間物と明家の間にある鞍部(写真2)には「オバンドウ峠」の看板があり、小さな祠(山の神?)が祀られている。道なりに少し下ると鳥居跡と思われる基礎と登り口が見られるが(写真4)、これを登った場所にある社は後述の旧産泰神社と思われる社が残されている(写真6)。
 集落には3軒ほどの家屋が残り、うち1軒は管理され度々の往来が窺える。集落の北西部には崩れた小祠が見られるが、名称は不明(写真18)。墓地は集落内に4箇所見られ、東部の小高い場所にあるものと南東部の道下のものは墓の数が多い。墓地では、三保家・津金・黒澤(黒沢)といった姓が見られた。
 このうち東部の墓地には三保家家の由来の碑(2004年、5代目当主による設置)がある。これによると、当家はまず平家の落人としてこの地に定住し(当時藤原家)、後に黒沢家となり16代続いた。秩父事件の後に藤原家に戻し、16代目の死後に三保家(みほのや)家(※1)と改姓したとのこと。17代目を「源太先生」と呼んでおり、後述の医師であるよう。

※1 本文にルビあり。ただし現在名字関連のウェブサイトで確認できる読みは、「みほや」および「みほけ」

 なおオバンドウ峠から稜線に沿って北に向かい破線の道に降りたが、稜線上では特に何も見られなかった。

 魚尾(よのお)で伺った話によると、かつては10軒弱。間物に数軒が転出しているとのこと。明治時代は栄え、集落の産泰(さんたい)神社に参詣に訪れる人が多かったという。遠く長野方面からも訪れる人があった。神社は天神様(尾附(おづく)にあったもの)と一緒に魚尾の国道沿いに祀られた。
 なおご厚意より社の内部を見せていただいた。以下は壁に掲げられた神社の由緒(■は当方による伏字)。


「明家の産泰さま」といわれて安産の神として中山郷上山郷下山郷をはじめ信州武州からも安産祈願の女性が多く参詣し産泰講もつくられていた。
子供の欲しい人は「たまるように」と底のあるヒシャクを供えて又安産祈願の人は「ポッカリ」生れるようにと底のぬけたヒシャクを奉納した。
祭神は木花耶開姫(本文ママ)で安産神社と産泰神社の幣神が祀られている。
もとは中里村神ヶ原八六三の一(明家神の平)にあり五一九【平方メートル】
(※2)の社地があり岩崎覚行外十六名によって管理されていた
祭日には太太神楽(※3)も奉納されて賑わった。
宮司は三保家寛齊(宮崎摂津守の弟子)がこれに当っていた。
明治四十五年一村一社に合併の際中山神社境内に隣接する魚尾七一二の六に尾附相切より移した天神様と並べて祀り黒田■■、今井■■(現在は黒田■■氏)外で管理運営されている。
例祭は四月二十三日である。

※2 「平方メートル」は本文では記号
※3 読みは「だいだいかぐら」(書籍『心のふるさとわが中里村』より)


 また書籍『心のふるさとわが中里村』には、かつての住民への聞き取りが記されている。以下に往時の様子が分かるものをいくらか抜萃した(話者は黒沢氏〔明治29年生〕。聞き取りは昭和52年)。

「昔はここにも七軒家があって、どこんちでも六人も七人も稼ぎ手がいてむし、子供も多かったから学校へ行ぐんにも連れあがって助け合って行っただぃ」
(蚕について)「オコサマ(蚕)かい? マイ(繭)を百貫もとっただぃ。家に稼ぎ手のおじさん、おばさんが六〜七人もいたが、蚕ビリョウ(蚕の時に雇う労働者)を男女一人っつ頼んでお蚕様【こさま】をしただぃ」
「昔は博労がよくここを通っただぃ。信州でトウネッコ(当年子・子馬)を買い付けて、十石峠、野栗峠を通って、も一つ志賀坂峠を越えて秩父へ行ぐとって、博労がよく通っただぃ」
「ここにゃ三保家源太ちゅう偉い医者様がいて、学校の先生もしたちゅうが、わしのころははぁいなかったが。(略)ここで、はやりやまいの赤痢が流行って当時明家にゃ七軒あったが、源太先生が「明家を救え」って一生懸命食い止めてくれただちゅうますぃ」
「ここは産泰様があってよく信心したから、お陰でお産が重い人はひとーりもいなかったぃ。(略)昔は赤っ子をおぶって、無事にお産が出来たちって、お礼参りに来るしだの、でっきゃぁ腹して、軽くお産ができるように、拝みぃ来るしがエラいただぃ。ココカラダ(この辺)のしだけじゃなく、甘楽郡だの、秩父だの、信州の方のしだの、講をくんで団体で来ただぃ」
「ここの妙見様は、秩父の妙見様と姉妹だちゅうますぃ。(略)今は妙見様と、オクマン様(熊野神社)と一緒に旧の、中のクンチの九月十九日にお祭りをしてますぃ」

 


(写真1 間物からの道。右に案内の看板が見える)

写真2 峠の鞍部

写真3 峠の小祠

写真4 神社の石段。対の石造物は鳥居の基礎か

写真5 参道の灯籠

写真6 神社の社殿

写真7 手水鉢

写真8 戦歿者の墓

写真9 電柱札。「明家支」「H9」と見える

写真10 造林地の標柱。「明家」と見える

写真11 小祠

写真12 農地跡?

(写真13 現在の産泰神社)

(写真14 写真13にて。左の柄杓は願掛けの供物か〔本文参照〕)

(写真15 同。古い扁額)

 

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