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◆三斗小屋(さんどごや)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「那須嶽」(昭和22.3)を使用したものである

所在:那須塩原市板室(いたむろ)
地形図:那須岳/那須岳
形態:山中に家屋が集まる
標高:三斗小屋宿―約1,100m 三斗小屋温泉―約1,460m
訪問:2019年5月

 

 大字板室の北部にある。ここでは那珂(なか)川上流部(=湯川右岸)にある旧宿駅「三斗小屋宿」と、那須町湯本に囲われた板室の飛び地である温泉旅館群「三斗小屋温泉」を扱う。
 訪問は深山ダム方面より。まず集落の手前には墓地や石塔類を祀った一角があり、戊辰戦争による戦死者の供養塔も見られる(写真2-4)。墓地では高根沢・高久・大金といった姓が見られた。
 三斗小屋宿跡は整備され、明るく開けた一角になっている。複数の解説板や石造物が道に沿って並び、他には小屋の類や神社社殿などの建造物も見られる。
 集落北東側、湯川を下に見る崖際には、神額に「白湯山」と記された鳥居(写真25)がある。脇にある「鳥居復元記念碑」によると、元禄8(1695)年に会津中街道開通により白湯山信仰が盛んになった頃、表参道口としてこの大鳥居が建立されたという。慶応4(1868)年の戊辰戦争の際に破壊され、一部は崖下に転落。平成19年9月に修復された。
 また集落北西には「山之神社」(写真26)があり、ここには整備された社殿が建てられている。
 さらに集落を抜けた北側の路傍には白湯山神社(写真29)があるが、境内には小祠が置かれているのみ。
 集落跡の整備は主に地域の社会奉仕団体(北那須ライオンズクラブ)によって行われているようで、以下のような史蹟の修復が行われている(現地の「史蹟の修復について」より。これ以外にも多く整備事業に参加)。

・大石灯籠 文久二年四月北條村百人講の白湯山へ献上したもの 昭和58年10月修復
・石灯籠 昭和59年10月修復
・金灯籠 文政六年遅沢村百人講により一対建設したもの。台石は二基復元し一基は石造りにて新設 昭和60年10月
・大日如来 寛文年中に建設、その後火災のため東部破損し、文久二年修理復元。傾いていたものを復元 昭和60年10月

 以下は「三斗小屋宿跡」の解説板(昭和57年、北那須ライオンズクラブによる設置)より。


 三斗小屋宿は 三斗小屋本坪ともいい 元禄八年(一六九五)会津藩主松平正容が参勤交代路としてこの地に会津街道を開いたので宿場ができた
 これにより 湯治客は年ごとに増加し なお 修験道の白湯山まいりが盛んになり信仰の地としてもさらに繁栄を加えた
 このようにして一時は二四戸ものきを並べた宿場も明治元年の戌辰(※1) の戦災で全焼してしまった
復興はしたが交通事情が変わり だんだん減ってゆき明治四一年五月の大火でふたたび全焼(一四戸)してしまい その後 四戸残っていたが 昭和三二年 十二月八日最後の一世帶が転出して 無人の地となった
 しかし いまなお街道や屋敷跡に宿場の面影を残し 道すじに並ぶ灯ろうや石仏は長い間の白湯山信仰の歴史を物語っている
 また 戌辰戦争
(※1)では 旧幕軍の攻防の重要な地点として 千人以上の兵が駐とんしていて激戦になった古戦場でもある

※1 表記ママ


 以下は「史跡 三斗小屋宿跡」(那須塩原市教育委員会による設置)より。

 那須塩原市指定文化財 昭和四十四年七月十日指定


 三斗小屋宿は、元禄八年(一六九五)に会津藩によって整備された会津中街道に設けられました。北には国境となる大峠、南には麦飯(ばくはん)坂があり、この一帯は街道一の難所でした。
江戸時代の末期に修験道の白湯山(はくゆさん)
信仰が盛んになるとその登山口として栄え、今なお寄進された常夜灯や石仏・大鳥居(平成十九年復元)などが残っています。
慶応四年(一八六八)の戊辰戦争の際、会津軍(旧幕府軍)と新政府軍との激しい山岳戦が展開され、戦火により宿の十四戸が焼失しました。宿跡南の墓地には、この戦死者の墓が残っています。
 明治二十六年(一八九三)には三斗小屋に銅山が開かれ、宿の近くで精錬が行なわれました。明治四十一年(一九〇八)五月の大火で十四戸すべてが焼失し、昭和三十二年(一九五七)に最後の一戸が転出して以降、無人の地となっています。


 続いて三斗小屋温泉を訪問。現在でも営業中(4-11月)の温泉旅館が2軒あり、訪問者も多い。
 宿の関係者(大黒屋(だいこくや)若旦那)の話によると、営業中の宿は大黒屋旅館と煙草屋(たばこや)旅館。大黒屋は高根沢家が代々受け継ぎ、煙草屋は明治末期からの参入とのこと。明治初期までは
柏屋(かしわや)・三春屋(みはるや)・佐野屋(さのや)・生島屋(いくしまや)・大黒屋があったが、大正期には2軒になったという。また温泉地もかつては旅館経営者の居住地であり、2代上の主人が子供の頃は三斗小屋宿の学校に通学していたという。なお10年から20年くらい前まで、宿は通年で営業していたという。
 旅館から道なりに登ると、市指定文化財の温泉神社がある(所在は那須町湯本)。以下は説明板より。


建造物 三斗小屋温泉神社本殿
 那須塩原市指定文化財 昭和四十四年七月十日指定

 三斗小屋温泉神社の創建年は明らかではありませんが、三斗小屋温泉は康治元年(一一四二)に福島県信夫郡の生島某の発見と伝えられています。三斗小屋温泉は那須(茶臼)岳の裏側、通称「奥那須」と呼ばれる所にあり、標高は約一四六〇メートルです。神社の社殿は温泉宿の東約七〇メートルのところ、一三七段の石段を上った山道わきにあり、祭神として大己貴命が祀られています。
 神殿は一間四方の欅造りで、柱を飾る上り竜と下り竜、貫の先端の竜頭、欄間や内・外部壁面の彫刻が巧緻精麗で大変素晴らしいものとなっています。なお、これら一連の彫刻は日光東照宮の造営に携わった彫刻師が、保養に来た際に製作にあたったとの言い伝えもあります。

 那須塩原市教育委員会


 さらに登山道を登ると源泉地があるが、これは未訪問。

 以下は資料『三斗小屋温泉誌』より当地の概要。

・歴史
 三斗小屋温泉の発見は、康治元(1142)年奥州忍(後世の福島県信夫郡信夫村)の生島某氏によるものと伝わる。富豪であった生島氏が没落し、難病を患ったため方々の温泉で湯治を行ったが、治ることはなかった。ある夜大己貴命が夢の中に現れ、お告げを賜る。これに従って見つけた滝水で湯治をしたところ、全身の病は悉く平癒したという。
 江戸時代になると、会津中街道の開通や白湯山信仰の行者の来訪もあり、かなりの賑わいを呈していた。
 発見から現代まで、戊辰の役(慶応4/明治元-2年)の戦禍を除き静かな温泉地であった。当地には明治2年までは柏屋・大黒屋・三春屋・佐野屋・生島楼(生島屋)の5軒の宿が営業していたが、明治24年には柏屋が廃業し4軒となった。明治44年頃、黒磯駅前にあった煙草屋旅館の支店が進出。三春屋・生島屋は廃業し、3軒となった。大正時代、佐野屋が廃業。
 明治元年14戸63人、明治41年5月、火災により全村焼失し多数の転出を見る。明治44年10戸44人(無籍者6戸21人を含む)、昭和14年5戸44人(三斗小屋宿・三斗小屋温泉を合わせた数字と思われる)。昭和32年、三斗小屋宿の大金氏の転出により無住となった。
 温泉の客層は、江戸時代には白湯山信仰の人々と、商人・武士などの湯治客・行楽客。明治に入ると様々な階層の湯治客となり、近年は登山客が大勢を占めている。
 現在の三斗小屋温泉の源泉とは別に、「三斗小屋元湯」が現在のカラ焼付近にあった(那須硫黄鉱山事務所の小平氏の所有)。簡素な旅館もあったが、終戦までには営業を停止。廃屋は戦後しばらく残っていた。

・交通
 元禄8(1695)年、氏家宿(栃木)から会津若松を結ぶ会津中街道が開かれた。三斗小屋宿はこの街道筋に当たり、このとき宿駅として整備された。中街道は会津西街道が藤原町五十里の堰止湖出現により杜絶した際に設けられたものだが、西街道が再開されたことにより当地は宿駅としては寂れていった。
 明治37年岩城鉄道(※2)が開通すると、通行する人馬もほとんどなくなり街道としての役割は廃れた。
 那須湯本より峰ノ茶屋を経て三斗小屋に至る道は、明治17年頃に県令の三島通庸によって開かれたといわれる。大正から昭和にかけては板室経由で三斗小屋温泉に訪れる客もあったが、馬車の便が出現してからは徐々に距離の短い那須経由の客が増えていったよう。
 三斗小屋温泉への物資の輸送は、昔より人や牛馬に頼っていた。戦中の昭和19年頃には牛による輸送は中止となり、間もなく馬を使うこともできなくなった。その後食料事情の悪化・世話人の不足・客足の減少などにより牛馬による輸送は再開されることなく、人力が主体となる。昭和41年に初めてヘリコプターによる搬送が行われ、同52年にはほぼヘリコプターによる輸送に移行した。

※2 現在のJR磐越西(ばんえつさい)

・産業
 江戸時代には黒羽藩により銅の採掘が行われていた。その後明治24年に再開され、三斗小屋宿に製錬所を設けて、粗銅として黒磯へ出荷していた。明治44年の人口44人のうち、鉱山関係者は21人。最盛期は第一次大戦時で、大正中期に休山。その後試掘も行われたが、再開せず。

・教育
 大正5年2月、高林尋常小学校北校板室分教場三斗小屋仮教場開設(なお明治44年、銅山所有者宮古氏建築の長屋を借用し一時的な仮教場が開設していた。児童数15名)。戦後児童は三斗小屋温泉の2名のみとなり、仮教場は温泉地に移転した。
昭和30年、児童数が0になり閉校となる。
 なお時期は不明だが、『三斗小屋誌』には「教員ハ温泉場ニ止宿シ毎日二十八町坂峻谿谷山川ノ間ヲ通勤セリ」とある。

※3 校名の変遷については記されていないが、戦後「日本一長い校名」としてNHKで放送された際には「栃木県高林村立穴沢小学校板室分校三斗小屋仮教場」と紹介されていたことが分かる

・通信
 以前は板室郵便局の配達区域で配達員による郵便配達を受けていたが、昭和19年3月に廃止された。
 昭和61年8月、無線電話が開設される。ただしこれは臨時公衆電話で、11月より翌年5月までは不通(※4)

※4 宿の公式サイトより、現在は衛星電話が使用されていることが分かる

・生活
 雪融けが終わった頃から湯治客の姿が見られるようになる。現在でも夏休みや週末などは登山客などで賑わうが、普段の平日は湯治客が静かな日々を送っている。かつての湯治客には自炊する人がかなりいたが、戦後は激減。現在ではほとんど賄い付きで滞在する。
 戦前・戦中までは行商人が三斗小屋まで来ており、三斗小屋温泉の逗留客や旅館関係者を商売の対象としていた。
 昭和30年頃までは、12月になると旅館を閉じて三斗小屋宿に降り、3月まで過ごしていた。明治から大正にかけては、板室本村で冬を過ごしたこともあったよう。
 三斗小屋宿の家々は以下のとおり(年代は不明。『那須山麓の民俗』をもとに刊行委員会が作成したもの)。

  名字 屋号 備考
1 室井 会津屋  
2 大金 港屋 後の煙草屋
3 三春屋  
4 (不明) 柏屋  
5 (不明) 亀屋 離村後は三井鉱山事務所
6 (不明) 伊勢屋  
7 大金 佐野屋  
8 (不明)  
9 (不明) (不明)  
10 薄井 白木屋  
11 高根沢 大黒屋  
12 (記載なし) (記載なし)  
13 高久 越後屋  
14 高根沢 大黒屋  

 ほか分教場と白湯山神社社務所が記されている。

 『三斗小屋誌』によると、三斗小屋宿にある主な造形物の由緒は以下のとおり。

・大日如来…寛文年間(1661-73)に造像。その後火災のため上部が破損し、文久2(1862)年再建。
・金灯籠…文政6(1866)年7月16日建造。
・石灯籠…文久2(1862)年4月建造。
・戊辰戦死の碑…三斗小屋の高根沢氏・大金氏により建造。「戊辰戦死者若干墓」と記されている。

 

≪三斗小屋宿≫


(写真1 集落手前の新旧の道標。新しいものには「上る 三斗小屋宿跡経由温泉」「右へ 麦飯坂経由沼原」とある)


写真2 道路と墓地


写真3 戊辰戦争戦死者の供養塔(中央)。「戊辰 戦死若干墓」「明治十三庚辰五月」などとある


写真4 石造物群。右2つは馬頭觀世音


写真5 集落風景。倉庫は本文中のNo.11付近


写真6 遺構(垢離場?)


写真7 屋敷跡?


写真8 屋敷跡入口?


写真9 屋敷跡?


写真10 遺構


写真11 茶碗のかけら

写真12 学校跡の標柱。「栃木県那須郡高林尋常高等小学北校板室分教室三斗小屋仮教場跡」とある

写真13 小屋

写真14 屋敷跡?

写真15 屋敷跡?

写真16 屋敷跡?

写真17 石灯籠

写真18 金灯籠。「百人講中」「文政六年癸未七月十六日」などとある

写真19 解説板(市教育委員会設置)

写真20 歌碑

写真21 解説板(北那須ライオンズクラブ設置)

写真22 石灯籠

写真23 大日如来像

写真24 石造物群。右は「白湯山…(以下不詳)」、中央は「白湯山常夜燈」とある

写真25 白湯山大鳥居

写真26 山之神社

写真27 小屋(本文中のNo.9付近?)

写真28 小屋(本文中のNo.2付近?)

写真29 白湯山神社。鳥居の右下に石柱、後方に小祠が見える

写真30 石仏
≪三斗小屋温泉≫

写真31 大黒屋旅館(本館)

写真32 同(新館)

写真33 煙草屋旅館

写真34 平坦地(旅館跡?)

写真35 解説板

写真36 ヘリコプターによる搬入作業

写真37 神社参道の石造物群

写真38 神社。鳥居と石段

写真39 同。社殿

 

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