◆五十里(いかり)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「川治」(昭和22.1)を使用したものである
所在:日光市五十里
地形図:五十里湖/川治
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約580m(水面は約580m)
訪問:2019年5月
大字五十里の西部、男鹿(おじか)川(鬼怒(きぬ)川支流)沿いにある。現在は五十里ダムの人造湖(五十里湖)にほぼ水没。
移転地の住民によると、移転は昭和30年頃。水没前は57軒ほどで、このうち手前(後述の「上の屋敷」)に5軒、寺近くに1軒と学校、海尻(うみじり)橋付近に4軒が移転した。いずれも当時は人家はなかった場所。現在も暮らしているのは合わせて5、6軒ほど。左岸の支流との合流部にも人家があった。主な生業は山仕事や林業のほか、自給用の農作物(芋・野菜類)の耕作であった。水田はない。
以下は町史より。
天和3(1683)年の大地震により、五十里村の南端付近(現在の海尻橋付近)に大量の土砂が崩落。会津西街道が遮断され、堰き止めによる「五十里湖」が出現。90日ほどで集落は水没してしまった。
31戸中、21戸は下流対岸の「上の屋敷」に移住し、10戸は湖の上端である「石木戸」(後年の「鬼怒木」付近)へ移住。「上の屋敷」の五十里村新田は、山林を焼き払って開墾した狭小な地で、畑が僅かであったため農業では生計が立たず、地震以前から生業としていた駄賃稼ぎで収入を得た。また馬を持たない農家は炭焼きを行っていた。
享保8(1723)年、暴風雨により五十里湖が決潰(五十里洪水と呼ばれる)。下流には甚大な被害が生じたが、五十里の住民にとっては旧来の地での集落再建が期待されることになる。宅地の割り当て・生活用水の確保等の入念な準備の末、享保11(1726)年会津藩に移転の願い出をしたところ、これが許可され同12年暮までに「上の屋敷」と石木戸からの移住が完了。同13年までにはほぼ復興した。
ところが享保13年から15年にかけて立て続けに風水害が起こり、再び村ぐるみでの移転を余儀なくされる。30戸中26戸は、五十里村内の「鳥居戸」と「平ノ下」移転。条件の良い立地にあった4戸は初め移転を拒否したが、郡奉行により強制移転となった(享保16年全村移転)。
(その後の経緯は不明)
なお五十里ダムの建設に際し「旧五十里地区六六世帯・八五戸が水没した」とあるが、先述の住民からの聞き取りとは大きな齟齬がある。
また当地にあった三依(みより)小学校五十里分校は、明治9年五十里学校として開校(五十里村の長念寺を借用)、ダム建設で移転し、昭和36年3月31日閉校。また三依中学校五十里分校は、昭和22年開校、同34年3月31日閉校。
以下はダム資料室にある展示より、五十里ダム建設の経緯。
大正15 |
ダム建設計画開始 |
昭和4 |
現在の海尻橋付近をダム建設地として掘削開始 |
昭和8 |
断層が確認され建設中止 |
昭和16 |
洪水を機に再び建設開始 |
昭和17 |
第二次世界大戦により建設中止 |
昭和23 |
昭和22・23年の洪水を機に工事開始 |
昭和31 |
竣工(8月) |
※1 なお町史では昭和25年着工、同30年竣工とある
また各地にある説明板には、以下のような内容が記されている(要約・改変)。
・五十里宿
当地は今市宿から会津若松を結ぶ会津西街道の途上にあり、街道は江戸から会津藩への参勤交代の重要な街道として利用されていた。やがて商品物流や旅などの流通の主要街道としても利用されるようになり、街道筋には宿駅が置かれ、当地にも五十里宿が開かれた。江戸の日本橋から50里あったことが地名の由来。
・長念寺
ここにある木造阿弥陀如来坐像は、有形文化財。長念寺に伝来した像。僧・慶円が康永2(1343)年に作成したとの墨書名がある。
・示現(じげん)神社
村の鎮守。創設は不明だが、古いもので「宝永元(1704)年石木戸五郎九人」と刻まれた祠が境内にあった。
・掘割(ほりわり)(※2)
1683年、日光大地震により男鹿川で堰止湖が発生。会津西街道の交通が遮断された。この時会津藩の武士で五十里関所の役人であった高木六左衛門が水路工事のために掘った跡。
・墓
工事は厚い岩盤に阻まれ完成せず、高木六左衛門はこの場所で割腹したと伝えられている。40年後の享保8(1723)年、堰止湖は決潰し下流に甚大な被害が生じた(五十里洪水)。
※2 町史等、「堀割」の表記も多く見られる
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