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◆九々明(くぐみょう)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「宮下」(昭和22.9)および内務省地理調査所発行の同地形図「若松」(昭和22.6)を使用したものである

所在:柳津町四ツ谷(よつや)
地形図:宮下/宮下 会津高田/若松
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約550〜600m?
訪問:2023年6月

 

 大字四ツ谷の北東部、魚留川(滝谷川二次支流)沿いにある

 町誌によると、文化3(1806)年当時は2戸だったが9戸あった時代もあるといわれ、木地挽を生業としていた。近年まであった2戸も共に移転したとのこと(※)。集落の起源は、胄中(かぶちゅう)からの移住との伝承がある。文禄3(1594)年には既に村は成立していた。小集落ながら独立村であり、明治8年8月、遅越戸(おそのこえど)村・沢中(さわなか)村・高森(たかもり)村とともに合併して四ツ谷村となった。
 村に神社は2社あり、延宝9(1681)年の「滝谷組拾ヶ村高反別古記」に「山之神社 山腰」とある石祠が羽佐間峠(狭間峠)の中腹にある。これが祖先土着と同時に祀った社。胄中からの移住者が祀った石祠があったが、後の代に山神社を当村の神社とした。
 不動滝のそばには不動堂があり、明治初期にはこの堂に修験の山伏(佐藤氏)が住んでいたこともある。先年(※)の豪雪で倒潰し、礎石のみが残っている。
 延宝9(1681)年2戸20人(男9・女11)(「滝谷組拾ヶ村高反別古記」より)、明治8年5戸33人。
 集落の絵地図には近年の2戸が記されており、下流側の家は昭和48年焼失、上流側の家は菊地氏が夏期のみ居住(冬期は会津若松市門田へ)していたことが分かる。

※ 刊行は昭和52年

 現地は林道(九々明線)が通じており、手前の宅地付近まで自動車の訪問が可能。この1軒の跡地には説明板があり、ここに小椋家が居住していたことや集落には昭和50年代まで暮らしがあったことが分かる。道なりに進み右岸に渡ると、もう1軒の跡地と墓地が見られた。
 なお山神社と不動堂は、事後に資料で知ったため未確認。
 以下は説明板より。


 九々明集落 小椋家住居跡

 ここ、福島県河沼郡柳津町大字四ツ谷「九々明集落」は古くから木地師の集落として昭和五十年代まで居宅がありました。この集落は旧大沼郡西山村の住民が、経済の中心であった大沼郡会津高田町(現在の会津美里町)へ通じる主要な生活道路「狭間峠」の中程に位置し重要な役割を果たした。
 狭間峠は四ツ谷から大岩観音を経由して会津美里町大字西本に通じる昭和初期までの重要な生活道路で、峠の鞍部からは明神ヶ岳に通じる登山道路も有り、登山道の途中には伊佐須美神社奥宮が鎮座する。柳津町の一級河川東川沿いに張り付いた集落で形成した当時の東川村は、経済や文化の中心を大沼郡会津高田町として、文化交流はもちろん物資の交流、特に東川村からは木炭などの産品を人馬によって尾岐村まで運び、尾岐村側からは生活物資を運んだ。ここ九々明は、休憩の場として峠の茶屋〔現在は跡地だけ〕と並び往来する人々の安らぎの地であった。
昭和五十年代には、最後まで残ったここ小椋家の人々も移住し廃村となった。平成二十二年から「狭間峠を甦らせる会」と「四ツ谷地区有志」によって使われれなくなって荒れ果てた街道を伐開し再開通した。峠を活用して年に一度「狭間峠ハイキング」などが行われており、ここ九々明に灯りがさしたことで小椋家の子孫の皆様から役立ててほしいと頂いた浄財をもって、ここに説明板を設置することとした。

 平成三十年五月

 


写真1 屋敷跡

写真2 道の渡河地点

写真3 屋敷跡

写真4 墓地

 

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