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◆雙座松(そうざまつ・そうじゃまつ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「喜多方」(昭和22.6)を使用したものである

所在:喜多方市山都町一川(やまとまちいちかわ)
地形図:喜多方西部/喜多方
異表記:惣社松(そうじゃまつ)
形態:鞍部付近の一軒家(もしくは家屋が少数?)
標高:約340m
訪問:2023年6月

 

 大字一川の東部。喜多方市慶徳町松舞家(けいとくまちまつまいけ)と山都町一川との境界にある雙座松峠の付近にある。街道沿いの茶屋集落。
 現在松舞家側に2、3戸ほどの無住の家屋と農地があり(写真5)、当初はその立地から茶屋の位置はこちらの可能性もあると想定。しかし旧版地形図では山都町側に地名が記されており、『福島県勢要覧 昭和26年版』での付図「福島県全図」でも「双座松」として山都町側に建物が記されているため、茶屋は山都町にあったものと断定。
 昭和22年の航空写真では、小布瀬川へ向かう道沿いに建物のようなものが確認できる。

 町史によると、当地を通る街道は「見頃街道」と呼ばれ、藤沢(町内相川(あいかわ))‐小布瀬川(一川)‐雙座松峠‐古四王山(こしおうやま)の風越(かぜこし)峠‐新町(あらまち)(喜多方市慶徳町松舞家)‐寺町(てまらち)(喜多方市)を結んでいた。昭和20年代までは、一ノ戸(一ノ木)・藤沢・一川方面の人々はこの街道を木炭や木地を背負って運び、喜多方で日用品を購入し往来していたとのこと。また喜多方方面からは飯豊山登拝のための参詣道でもあった。この街道は重要な役割を担っていたので、冬期でも道が開かれないということはなかったという。
 当地には茶店があって、汁物や菓子を商っていた。往来する人々はここで汁物を喫し、弁当を広げたものという。しかし馬車が出現し、最明寺の路線(現在の県道16号)が整備されてからは往来する人々も減少した。

 以下は茶屋にまつわる昔話。

 惣社松(双座松)の峠には1軒の茶屋があって、お爺さんとお婆さんが登山道を記した版画や甘酒を売っていた。その人たちの若い頃は、そこに大きな松の木があり、峠の名前になったといわれている。その松は明治の末期に枯れてしまい、そのあとはヒノキが育って茶店を覆い通る人々を喜ばせていた。
 鉄道が敷かれて参道が変わると急に人通りが少なくなり、一ノ戸方面などから喜多方へ馬で荷を運ぶ人や、小布瀬川の人たちが日用品などを求めに荷を背負って通るくらいとなってしまったが、それでも双座松はその人たちにとって大切な休場所だった。
 昭和になってある大雪の年、誰も峠を越えられないまま何日か過ぎて、小布瀬川の人たちが道を開こうと揃ってかんじきで踏んで行くと、雪に閉ざされた茶屋で2人はひっそりと冷たくなっていたという。
 その後茶屋はなくなっても、荷駄を運ぶ人にとってはかつてと同じように一服する場所となり、休み場として後々まで親しまれた。

 もう一つ、『会津・山都の民話』および『民話と文学 第五号』に掲載されている逸話では、双座松では爺さまと婆さまが茶屋をやっていたが、金回りの良さそうな人が通ると、ばっさりと殺し金を奪ったという(※)

 また資料『会津の峠 上』では編者の伝聞によると、双座松峠には茶屋が3軒あり、互いに競争して客を呼びあったという。言い伝えではかつてここに飯豊山の一の鳥居があり、この辺には種々の神社があったという。その後空海上人がここに2株の松を植え、飯豊山に向かって一宇を造立し、飯豊・惣社の二神を勧請した。そのためこの峠には大きな松の木が2本あり、惣社松ないし双座松と呼ばれるようになったという言い伝えがある。

※ 主要な生活道路でこのような狼藉があり、かつその後も営業が続けられたとは考えづらく、私見としては信憑性に疑問が持たれる


 訪問は松舞家新町方面より。先述の耕地までは自動車の通行が可能だが、駐車場所がなくさらに手前から徒歩となる。耕地から先は道は荒れ、ほとんど往来がないことが窺える。
 峠を越えて小布瀬川方面・川吉方面の分岐付近はある程度平坦であるが、往時の痕跡や遺留物は確認できなかった。
 なお表記については資料でも「双」の字体の新旧で揺れが見られるが、ここでは現在の地形図に倣い見出しは旧字体の表記とした(ただし本文中では引用元の表記のままとしている)。


◆追記

 2023年10月、閲覧者様より当地に関するメールをいただきました。
 いただいた情報によると、当地に隣接する「2、3戸ほどの無住の家屋と農地」は新町集落の方の出作り耕作地であったとのことです(差出人のお母様談)。平野部にあまり土地を持っていない方が一反ほどの田畑を開き通いで耕作をしており、また秋や早春には山に留まりキノコや山菜採りで生計の助けとしていたそうです。ただし米の作柄もあまり良くはなく、減反政策の影響もあり次第に耕地は減っていきました。記憶の残る昭和30年代には既に出作りは始まっていたということです。
 この場を借りてお礼申し上げます。

 


写真1 峠(喜多方側より撮影)

写真2 開けた平坦部

写真3 茶屋跡?の平坦地

写真4 分岐付近の平坦地

(写真5 峠東の耕地)

 

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