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◆松川(まつかわ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「相馬中村」(昭和28.3)を使用したものである

所在:相馬市尾浜(おばま)
地形図:相馬中村/相馬中村
形態:海沿いに家屋が集まる
離村の背景:軍による接収
標高:数m
訪問:2023年5月

 

 大字尾浜の東部、松川浦に面した海沿いにある。
 集落跡はほとんどが荒地となっているが、一部には漁業に関連すると思われる小屋も見られる。鵜ノ尾崎に近い部分では、鵜ノ尾崎地蔵尊(写真3)・奥の院夕顔観音(写真4)がある。また岬の先端には、海洋調査船「へりおす」の海難事故の犠牲者を悼む慰霊碑(写真5)がある。

 地蔵尊の説明板によると、太平洋戦争の末期である昭和19年、鵜ノ尾崎一帯が軍用地となり、集落の全戸が船越(ふなこし)・平前(たいらまえ)方面への強制移転を命じられたとのこと。成年男子は戦争に召集されており、老人と婦女子だけでの移転作業は難儀であった。
 また夕顔観音の参道にある岩壁の窪みには、昔は石碑や地蔵がたくさんあり、「お地蔵通り」と呼ばれていたという。強制移転に伴い
夕顔観音の解体移転作業は全員で取り組んだが、「お地蔵通り」の石造物群は放置せざるを得なかった。
 
平成9年には夕顔観音の跡地に「奥の院夕顔観音」を新築。平成10年、空洞のままとなっていた「お地蔵通り」に100体を超える地蔵を奉納したが、平成23年3月11日、東日本大震災の津波により地蔵はほとんど流失。その後地蔵奉納に関わった石材店の関係者たちの捜索により、52体が戻された。平成28年10月、関係者が集まり、長命寺住職により地蔵の復元供養が行われた。

 市史によると、浦では古くから塩田による大規模な製塩が行われ、当地と和田(わだ)・本笑(もとわろう)の人々が農業・漁業との兼業で営んでいたという。明治42年に松川浦の塩田は姿を消し、海苔の養殖が始まった。
 
松川浦の浦口は、昔は大洲海岸の真ん中辺りにあったが、次第に北上。やがて鵜ノ尾岬の南まで移動し、時々塞がることがあった。そこで明治41年1月より、現在の場所に新しい浦口の掘鑿工事が始まり、同43年開通。これにより、大正年間利便性の高い浦口に船溜まりが築造された(後の松川浦漁港)。
 集落で行われていた「松川の神楽」は移転後も継続。後継者不足により昭和40年から中断されたものの、同57年「松川神楽保存会」の結成により再興し、現在も続けられているとのこと。

 


写真1 集落跡

写真2 集落跡遠景

写真3 鵜ノ崎地蔵尊

写真4 夕顔観音堂

写真5 慰霊碑
 

 

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