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◆中ノ七里(なかのしちり)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「吾妻山」(昭和22.6)を使用したものである

所在:北塩原村桧原(ひばら)
地形図:桧原湖/吾妻山
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約860m
訪問:2023年6月

 

 大字桧原の西部、小塩川(大塩(おおしお)川支流)沿いにある。若松(会津)と米沢(出羽)を結ぶ米沢街道に沿う集落。

 資料『裏磐梯北塩原の民俗』および現地の「中ノ七里の一里塚跡」の説明板によると、若松からも米沢からも7里なので、このように呼ばれるようになったという。
 宝永3(1706)年に大塩の「たい小屋」から13戸が引っ越したのこと。平成19年までは人家があった。
 文明年間(1469-87)にこの付近に文太郎なる者を首領とする山賊が住み着き悪事を働いていたが、黒川城主・葦名修理大夫盛高は、穴沢越中守俊家に命じ、これを討伐したという。その後穴沢俊家とその一族は葦名氏の命によって郎党とともに桧原地内に移住し、この時から桧原は出羽の伊達氏に対する前線基地を兼ねる宿駅として整備されていった。なお昔の桧原は穀物が実らないため農民は居住せず、木地挽が70余戸住んでいるだけであった。
 明治に入り「会津三方道路」(※1)が開通すると、米沢街道は大(おお)(※2)を通るようになり、当地を通る旧街道は寂れていく。ただし大正期頃までは、山形県の出羽三山(湯殿山・羽黒山・月山)へ参詣する人々がこの旧街道を利用していた。

※1 会津若松から栃木・新潟・山形の三方へ向かう道路
※2 熱塩加納村【現・喜多方市】熱塩‐米沢市入田沢


 現在は最後の家屋があったと思われる一帯が開けており(牧草地?)、付近に集落跡を示す木製の標柱(写真2)や墓地(佐藤氏)(写真3)が見られるのみ。やや下った所に一里塚の跡がある(写真4)。

 


写真1 道路沿いの風景。右は屋敷跡

写真2 標柱

写真3 墓地

写真4 一里塚跡

 

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