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◆沼尻(ぬまじり)鉱山

所在:猪苗代町蚕養(こがい)
離村の背景:産業の衰退
訪問:2023年5月

 

 安達太良山(あだたらやま)の北西、硫黄川(※)(酸(す)川支流)の上流部にあった鉱山。硫黄鉱を産出した。大字蚕養の北東部。
 以下は町史より、その主な沿革。

   (往古より小規模な硫黄の採掘・製錬が行われる)
 明治21  渋沢氏・細野氏が鉱区を取得。沼ノ平にて事業開始
 明治33.7.17  安達太良山沼ノ平火口にて噴火。沼ノ平にあった採掘場・製錬所は潰滅し、死傷者多数
 明治37  山田氏が鉱区を取得。事業を開始するも、十分な成果が得られず
 明治39.5  岩城硫黄株式会社設立
 明治40.4.4  岩城硫黄株式会社を引き継ぎ、商号を日本硫黄株式会社とする。事業再開(11月5日開業式)
 明治40.10  元山から製錬所まで鉄索を架設(2,008m)。元山鉄索という。このほか元山事務所・湯川端出張所・製錬倉庫・鉱員宿舎・鍛冶工場を新築。
 明治42.8

 製錬所から大原まで鉄索を架設(2,284m)

 明治44.8  製錬所にて沼尻病院が診察開始(のち医院が製錬所・元山の2箇所となる)
 大正2.1.22  積雪により鉱山事務所など4棟が倒潰。6名死亡、13名負傷
 大正2.5  日本硫黄経営による耶麻軌道が開業。川桁−大原(後の沼尻駅)間
 大正10  元山にあった沼尻温泉宿が、中腹の現在地に引湯し移転
 昭和8-14  最盛期
 昭和19.11  耶麻軌道が沼尻鉄道と改称
 昭和23.5.16  製錬所にて大火。鉱山事務所・小学校・病院・資材倉庫・食糧倉庫・職員合宿所等の施設、職員舎宅5戸全焼し、所長以下20世帯が罹災
 昭和43.6  閉山


 採掘は専ら障子ヶ岩熔岩や胎内岩熔岩の下部を露天掘りあるいは坑道を穿って採掘していた。これを鉄索によって沼尻温泉北の台地に設けられた製錬所まで運搬して製錬、製品は沼尻鉄道(旧耶麻軌道)により沼尻駅(旧大原駅)から川桁駅に運び、中央工場に送っていた。
 集落は山上の採鉱所付近と山腹の製錬所付近にあり、ここではそれぞれを文献上にも見られる「元山(もとやま)」および「製錬所」と呼ぶことにする。

※ 町史では専ら「湯尻川」の呼称を用いており、国土地理院の地図では硫黄川となっているとの記述あり。また土地の人は単に「湯川」と呼んでいるとのこと

 

 

≪元山≫



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「二本松」(昭和40.2)および地理調査所発行の同地形図「磐梯山」(昭和33.10)を使用したものである

地形図:安達太良山/二本松
形態:採鉱所付近…谷沿い 鉱山住宅…尾根上に家屋が集まる
標高:採鉱所付近…約1,240m 鉱山住宅…約1,170?〜1,230m
訪問:2023年5月

 

 硫黄川とその支流に挟まれた山中にある。
 昭和39年および同46年の航空写真では、採鉱所付近の谷沿いに数棟の建物が見られ、またその西の尾根上ではいくらかの建造物とその跡地と思われる多数の区劃が確認できる。同51年のものでは谷沿いは同様だが、尾根上は学校と思われる大型の建物のみとなっている。
 採鉱所跡付近は安達太良山等への登山道であるため、訪問は比較的容易。沼尻温泉の源泉があり、引湯設備や湯の華採取の設備・関連施設が見られる。また浴槽を備えた建物(倒潰)や祠(写真4)もあり、温泉に関連するものと思われる。なお火山性ガスが発生しているため、源泉付近は立ち入りを規制する看板が多く見られる(写真6など)
 西側には索道の発着場所があるが、そのそばには鉱山の殉職者を悼む碑が置かれている(写真9・10)。またこの付近では、鉱山に関する遺構がいくらか見られる。
 鉱山住宅跡は、全体に亘って木や笹が深く生い茂り、詳細な探索は非常に困難。最近の地形図で道が終わっている場所の一帯のみが草木が疎らになっており、この付近が学校跡であるよう。建物の基礎は校舎の跡と思われる(写真21・22)。

 なお鉱山住宅へ向かう道は、索道発着場所付近で不明瞭となり、初見で取り付くことは困難。

 町史によると、沼ノ平および元湯付近の鉱区は旧来より白木城(しらきじょう)地区が所有しており、岩城硫黄株式会社設立と同時に会社と白木城地区代表者との間に土地使用の関する契約を交わし、のち変遷を経ながら閉山まで存続したとのこと。
 沼尻温泉は、障子ヶ岩の西端の谷底に湧出。近世より湯の出口のそばに小屋を掛け、白木城村の人たちが交互に湯守を務めていた。明治19年渡部氏が村から一切を譲り受け、4月に湯屋を開業。明治33年の噴火で一時休業したが、翌34年再開。明治40年沼尻鉱山の再開発に伴い、旅館の下に坑道が掘鑿され危険となったので、鉱山が一切を負担し大正10年現在地に引湯移転し改めて開業したとのこと(大正7年起工、同9年11月竣工)。
 源泉の湯垢(湯の華)の採取に関しては、寛永2(1625)年より会津藩と二本松藩との間で争いが起きた。これは湯守を置いて湯銭を取っていた二本松領深堀小屋と、湯小屋の敷地を貸して小屋銭を取っていた会津藩領白木城村によるもの。互いに自分の領地内から産するものであると主張していた。深堀小屋が幕府に訴え出たが、宝暦5年12月幕府は元禄の絵図面に基づき元湯は会津藩領と裁定。白木城村の勝訴となり、今後白木城で湯垢を取り、湯川(硫黄川)の改修も白木城で行うこととなった。
 なおかつては石に付着したものを採取していたが、現在は木製の樋を設け、沈殿したものを採取している。先述の祠も、湯神を祀るものであるとのこと。
 また当地には元山小学校と元山中学校があった。同書および資料『猪苗代郷土誌稿』によると、小学校は大正9年1月に私立沼尻鉱山尋常小学校の元山分教場として開設。昭和43年3月31日閉校。中学校の沿革は以下のとおり。

 昭和22.5.1  吾妻中学校元山分室開設
 昭和25.4.1  吾妻第二中学校の所属となる
 昭和27  校舎新築
 昭和28.4.1  独立。元山中学校となる

 昭和42.3.31

 閉校


 なお町史自然編の絵図「安達太良山の噴火口沼の平と四周の熔岩台地とその侵蝕崖」には、集落の一角に「元山避難小屋」があり、かつての校舎が避難小屋として使用された可能性がある。

 


写真1 採鉱地付近の俯瞰

写真2 硫黄川沿いの風景。左上は湯の華採取の関連施設か

写真3 何かの施設

写真4 祠

写真5 浴場跡?

写真6 源泉への道

写真7 川沿いの風景

写真8 索道。湯の華運搬のものか

写真9 手水鉢(右手前)と「沼尻硫黄山鑛夫殉職之碑」

写真10 写真8の碑。大正18年8月とある

写真11 鉱山関連の遺構?

写真12 同

写真13 同

写真14 同

写真15 レール

写真16 鉱山住宅への道

写真17 同。標高およそ1,245mの峠部分

写真18 集落入口付近の何かの建物跡

写真19 平坦地。校庭付近?
 
写真20 金属製の管

写真21 学校付近にて。建物の基礎

写真22 同

写真23 同。鉄棒?

写真24 壜

写真25 陶片

 

≪製錬所≫



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「磐梯山」(昭和33.10)を使用したものである

地形図:中ノ沢/磐梯山
形態:台地に家屋や施設が集まる
標高:約840m
訪問:(2023年5月)

 

 硫黄川左岸側の台地にある。
 現在は全域がゴルフ場の敷地内のため、集落跡地は未確認。最近の地形図では敷地内に神社の記号も見られるが、鉱山に伴うものかは不明。
 昭和27年の航空写真では学校や複数の建造物が見られるが、同47年のものでは建造物はほぼすべて撤去されている。平成9年のものではゴルフ場に変貌。

 町史によると、当地には 沼尻小学校があったとのこと。以下は同書および資料『猪苗代郷土誌稿』よりその沿革。

 明治44.11.29  設置認可
 明治45.3.1  日本硫黄株式会社沼尻鉱業所により、私立の沼尻尋常小学校開校
 大正元.9.21  私立沼尻鉱山尋常小学校と改称
 大正9.1  元山に分教場設置
 昭和14.4.1  高等科併置認可
 昭和16  沼尻国民学校となる(※)
 昭和22.4.1  沼尻小学校となる
 昭和23.5.16  火災により校舎類焼。倉庫を改造し仮校舎とする
 昭和26.2.12  校舎落成
 昭和34.4  吾妻第二小学校の分室となる

 昭和36.3.31

 廃止

※ この年から公立移管(吾妻村立)か

 


(写真26 ゴルフ場入口)

 

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