◆大滝(おおだき)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「關」(昭和22.2)を使用したものである
所在:福島市飯坂町中野(いいざかまちなかの)
地形図:栗子山/関
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約350m
訪問:2023年5月
大字中野の中部、小川(摺上(すりかみ)川支流)沿いにある。ここでは後述の資料に倣い、旧版地形図で「大滝」と記されている場所のほか「葭沢」「長老沢」についても触れる。
市史によると、明治期に開設された福島‐米沢を結ぶ新道「万世大路」の開通に伴い、その宿駅として開かれた集落であるとのこと。
万世大路は奥羽山脈を自動車で越える初の街道で、初め福島側では中野新道、山形側では刈安(かりやす)新道と呼ばれた。完成は明治14年。10月14日付で人馬通行を許可する旨が上申された。明治15年2月万世大路と命名され、明治18年2月国道に昇格。
当初山形側の刈安新道に沿っては刈安・川越石などの集落があったが、福島側の中野新道に沿っては円部(えんぶ)以西に集落がなかった。そこでこの道路に沿って新駅を設ける必要があり、中野村堰場(せきば)・大滝、茂庭村大平への移民の招致が行われた。明治14年11月、県は伊達・信夫両郡役所に対し、新設3駅へ移住民を招致する旨を通達。なお大平は、明治22年に付近の小字とともに茂庭村から中野村に編入している。
こうして3駅それぞれに陸運物貨継立所が置かれ、明治32年の国鉄奥羽線が福島‐米沢間に開通するまで賑わった(全線開通は明治38年)。
大滝は中野新道着工後間もなく中野の本村から移住した人たちが住み、明治14年には二ッ小屋の土木課出張所と大滝の渡辺氏宅が明治天皇の小休憩所となった。また長老沢(ちょうろうざわ)には、西村屋・中屋・宮内屋の旅館が開設された。
なお当地については、「わが大滝の記録」が非常に詳しい。
これによると、長老沢(通称・胡桃平(くるみだいら))・大滝・葭沢(よしざわ)の3地区を総称して大滝と呼んでいるとのこと。
以下は集落にあった家々を表にしたもの(概ね上流側より)。番号は本文のものに従った。概ね同じ番号であれば同じ家屋だが、一部例外があるため、詳細は当該資料に譲る。
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地区 |
昭和10年 |
昭和30年代中頃 |
昭和51年春 |
備考 |
1 |
長老沢(胡桃平) |
渡辺 |
渡辺 |
渡辺 |
|
2 |
〃 |
高野 |
高野 |
高野 |
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3 |
〃 |
渡辺 |
渡辺 |
渡辺 |
|
4 |
〃 |
渡辺 |
渡辺 |
渡辺 |
|
5 |
〃 |
木村 |
― |
― |
|
6 |
〃 |
渡辺 |
― |
― |
|
7 |
〃 |
紺野 |
― |
― |
|
8 |
〃 |
笠原 |
渡辺 |
― |
|
9 |
〃 |
渡辺 |
(物置) |
― |
|
10 |
〃 |
紺野 |
紺野 |
― |
|
11 |
〃 |
笹木 |
三坂 |
― |
|
12 |
〃 |
渡辺 |
― |
須田 |
|
13 |
〃 |
渡辺 |
須田 |
― |
|
14 |
〃 |
山岸 |
山岸 |
― |
|
15 |
〃 |
佐藤 |
渡辺 |
― |
|
16 |
〃 |
佐藤 |
― |
― |
|
17 |
〃 |
木村 |
油井 |
― |
|
18 |
〃 |
佐藤 |
佐藤 |
― |
|
19 |
〃 |
長尾 |
後藤 |
― |
|
20 |
〃 |
二階堂
新保
|
二階堂 |
渡辺 |
|
21 |
大滝 |
熊田 |
― |
― |
熊田氏は教員 |
22 |
〃 |
斎藤 |
― |
― |
|
23 |
〃 |
蒲倉 |
蒲倉 |
― |
|
24 |
〃 |
蒲倉 |
― |
― |
|
25 |
〃 |
(空白) |
― |
三坂 |
昭和10年は営林署駐在員宿舎 |
26 |
〃 |
須田 |
須田 |
― |
|
27 |
〃 |
太見 |
太見 |
― |
|
28 |
〃 |
紺野 |
木村 |
― |
|
29 |
〃 |
紺野 |
― |
― |
|
30 |
〃 |
須田 |
須田 |
― |
|
31 |
〃 |
柾木 |
柾木 |
― |
|
32 |
葭沢 |
佐藤 |
佐藤 |
― |
|
33 |
〃 |
佐藤 |
佐藤 |
― |
|
34 |
〃 |
斎藤 |
斎藤 |
― |
|
35 |
〃 |
斎藤 |
― |
― |
|
36 |
〃 |
我孫子 |
我孫子 |
― |
|
37 |
〃 |
羽賀 |
― |
― |
|
38 |
〃 |
熊坂 |
― |
― |
|
39 |
〃 |
伊藤 |
伊藤 |
― |
|
40 |
〃 |
小林
山田
|
小林 |
― |
|
41 |
〃 |
吉田 |
吉田 |
― |
通称「まんじゅ屋」(後述) |
昭和10年43世帯266人、同35年32世帯190人(以上国勢調査)・同51年春7世帯34人。
なお番号が付されていないものに、昭和30年代長老沢の営林署駐在員宿舎(石川氏)がある。
大滝の発祥は万世大路の開鑿工事が始まった明治10年頃と推定される。その後宿場として開け、先述の西村屋・中屋・宮内屋のほか、その後も何軒かの旅館が開業し、馬宿もあった。運送業としては荷馬車運送業や人力車が営まれたほか、駄馬を牽く者、荷車を引く者、荷物を背負い大平まで往復する者があった。
奥羽線開通後は人馬の往来も急速に減少。宿場は衰退し、大部分の人々は伐採や炭焼きに転向した。 明治30年代終わり頃、葭沢に銅鉱石の鉱床が発見され大滝鉱山が操業した。一時は大きな利益を上げたが、埋蔵量が少なかったため長くは続かなかった。この時吉田氏宅(上の表のNo.41)では鉱山労働者のため饅頭を作って売っていたため、後年まで「まんじゅ屋」と称されていた。
大正期に入り、製炭が生業として定着。昭和初期より技術が高まり福島・飯坂方面で高評を得たが、生活は常に苦しかった。大滝では米や麦は作れず、痩せた山畑で粟や蕎麦、トウモロコシなど高冷地でも育つ作物、ほか芋や野菜を栽培し自給を図った。
明治30年代半ば頃より、副業として養蚕が始まる。昭和10年頃までは盛んであったが、畑の桑の老化と人手不足で減少し、昭和36年頃には養蚕家は皆無となった。
家庭の燃料がガスや石油に変わり、木炭の生産は昭和32年頃をピークに下降する。昭和43年には大滝製炭組合は解散し、昭和51年時点では5世帯ほどが自家用や飯坂の温泉旅館からの注文に応じて炭を焼く程度となった。
昭和15年11月、全戸に一斉に電灯導入。
昭和33年8月、飯坂から大滝まで定期バスが開通。1日2往復で、葭沢・大滝・長老沢の3箇所に停留所が設けられた。
昭和41年5月には現在の国道13号(栗子ハイウェー)が開通。1日5往復の福島‐米沢間のバス路線も開通したが、新国道沿いに停留所が置かれ集落内の停留所は廃止された。
新国道開通時、墓地の大半が道路用地となり昭和38年に改葬が行われた。
氏神は山神神社。明治43年、大滝鉱山主の光石氏が造営したものと伝わる。
大滝には小学校・中学校の分校があった。
以下は小学校分校の沿革。
明治23.2 |
中野尋常小学校大滝分教場開設 |
明治36.6 |
廃止 |
明治38.4 |
分教場再開 |
明治38.10 |
廃止 |
明治41.1 |
冬季分教場開設 |
大正7.4 |
常設の分教場となる |
昭和42.3 |
閉校 |
なお中学校(大鳥中学校大滝分校)は、昭和22年飯坂中学校大滝分校として開校(木炭組合事務所2階)。昭和23年1月小学校に校舎が併設された。昭和34年8月閉校。
以下は児童・生徒数の推移。
年度 |
昭和26 |
昭和27 |
昭和28 |
昭和29 |
昭和30 |
昭和31 |
昭和32 |
昭和33 |
昭和34 |
昭和35 |
昭和36 |
昭和37 |
昭和38 |
昭和39 |
昭和40 |
昭和41 |
小学生 |
50 |
35 |
40 |
37 |
44 |
37 |
33 |
36 |
36 |
34 |
26 |
31 |
25 |
23 |
21 |
14 |
中学生 |
10 |
23 |
22 |
25 |
19 |
25 |
不詳 |
不詳 |
― |
― |
― |
― |
― |
― |
― |
― |
昭和35年頃から離村者が目立ちはじめ、同42、3年頃から顕著となる。
以下は戸口推移。なお昭和7年、大平より6戸25人が移住している。
|
明治19 |
大正9 |
大正14 |
昭和5 |
昭和10 |
昭和15 |
昭和22 |
昭和27 |
昭和35 |
昭和40 |
昭和45 |
昭和51 |
戸数 |
約28 |
35 |
33 |
33 |
43 |
40 |
38 |
35 |
32 |
27 |
15 |
7 |
人口 |
|
186 |
191 |
225 |
268 |
231 |
217 |
222 |
190 |
117 |
67 |
34 |
以下資料『福島市史資料叢書』より、当地に関する新聞記事から上記の補遺となる内容を抜萃・要約する。
・「福島民報」(昭和46.7.4)
旧中野小学校大滝分校の校舎は、中野公民館大滝分室として再利用され青少年野外活動の施設に転用。2年目にして、夏休みを控えて利用申し込みが相次いでいる。市教育委員会では、前年4月から中野公民館に管理を委託して無料開放している。
・「福島民報」(昭和51.6.17)
江戸時代の宿場町姿を再現しようと作業が進められている「大滝の宿場」を、福島市が全国的にPR。大滝は現在は過疎で6戸が住んでいるのみ。ここに目を付け宿場町の雰囲気を復活しようと呼びかけたのが、市内で観光業を営む傍ら新農山村研究会を主宰している菅野氏。氏は昭和46年から大滝で古風な食堂を試験的に経営したところ、1軒にもかかわらず飯坂温泉の観光客などが押しかけ、「これならば宿場町の復活に自信が持てる」とした。
流しそば、うどんなどを売る食堂、手作りの金物を売る鍛冶屋、茶屋など12業者が参加を希望、すでに一部工事が始まっており、8月には開業できる見込み。
・「福島民報」(昭和54.1.9)
2世帯11人が、今年いっぱいで地区を引き払うことになった。残った2世帯は中野地内に家を建て4月に転居するが、「宿場」は今後も観光名所として残る。
・「福島民報」(昭和54.10.15)
分校跡地に同地区の歴史を伝える記念碑が分校跡地に完成。10月14日に除幕式。
現在、葭沢に建物は皆無。大滝に観光施設の名残の建物や神社、長老沢に人家の廃屋が数軒残るのみ。
葭沢の西端、大滝橋のそばには石造物がいくらか置かれた一角があるが、鳥居には「大滝水神」と記されている(写真5)。
大滝には学校があったが、旧版地形図に記された位置を頼みとしていたため実際の跡地を踏査する機会を逃してしまった。なお地図上の場所は学校が立地できる地形ではなく、旧版地形図でこの位置に記された経緯は不明。なお「わが大滝の記録」の集落図では、昭和10年・同30年代・51年ともに学校の位置は変わっていない。実際の校地跡のそばには大滝記念碑(昭和54年、大滝出身者有志一同による)(写真11)があり、集落の歴史や碑設置の経緯が記されている。
長老沢の家屋群の中には、先述のとおり明治天皇が休憩した民家があり、同家の敷地には「鳳駕駐蹕之蹟」の碑(明治41年設置)と「明治天皇大滝御小休所」の碑(昭和18年設置)が建てられている。前者には「明治十四年十月三日 御通輦」とあり、後者には「史蹟名勝天然紀念物(ママ)保存法ニ依リ史蹟トシテ 昭和十年十一月文部大臣指定」とある。
なお墓地は現在の国道沿いにあり、先に挙げた家の名字が多く確認できる(ただし個人名の墓で、資料では確認できない名字が2例見られた)。
なお読みについては「わが大滝の記録」に拠ったが、福島市史資料叢書の第38輯(福島の小字)では、大滝は「おおたき」、葭沢は「よしのさわ」となっている(長老沢は読み同じ)。葭澤橋の読みは「よしざわ」。
ちなみに東北中央自動車道の大滝トンネルは「おおたき」であり、いずれの読みも用いられているよう。
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