◆栃台(とちだい)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「清川」(昭和22.6)を使用したものである
所在:戸沢村古口(ふるくち)?
地形図:木の沢/清川
形態:山中に家屋が集まる
標高:約200m
訪問:2018年11月
村の西部、三ッ沢川(最上(もがみ)川二次支流)左岸側の山中にある。
村史によると、集落の始まりは大正10年6月(「栃台分教場経営」(※1)に拠る)もしくは大正9年(「栃台開拓部落について」(※2)に拠る)。当時の立谷沢村【後の立川町、現・庄内町】の人々を中心に農繁期に山に入り畑地を造成することが端緒であったという。
当初は古口村役場でもその存在を知らず、昭和初期の国勢調査により初めて認知された。昭和7年の「山形新聞」で、「古口三里の山奥に珍しい原始的部落 国勢調査で発見した一六戸 漸く分教場を作る」との見出しで取り上げられている。
小豆などの豆類は比較的収穫が良かったが、生活の中心は国有林を伐採する製炭であった。生活は苦労が続き、昭和16年、新天地での発展を目指して集落挙げての満洲移民に参加することとなり、無住地となった。
戦後になり、満洲から帰国したかつての開拓住民の門脇氏らが県庁に赴くと、再び栃台に入植することを強く勧められた。話し合いを重ねるうちに、既に山形から10人の「食糧増産隊」が入植していたところに門脇氏らが合流したという。
古口村「決議書綴」の「古口村農業振興計画書」(昭和26年)では、当時戸数10戸。役牛・乳牛・緬羊を導入しサイロと作業所を設置する計画が立てられていたが、当時はすぐに現金収入となる製炭に依拠した生活をしていたことや、既に離村が進んでいたことにより実行されることはなかった。昭和30年再び無住となる。
以下は当地にあった学校の沿革。
昭和7.10.1 |
古口尋常高等小学校栃台分教場設置 |
昭和17.3.31 |
廃止 |
昭和22.6.30 |
古口小学校栃台分校開校 |
昭和29.3.31 |
廃校 |
訪問は古口林道栃台支線より。付近までの訪問は比較的容易だが、現地では痕跡をまったく見つけることができなかった。村史によると昭和4年設置の開墾記念碑があるとのことだが、これも未確認。
※1 昭和初期に分教場の教諭を務めた鈴木氏による編
※2 分校の教諭西嶋氏による編。入植者(門脇氏)末裔からの聞き取り
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