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◆栃窪(とちくぼ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「荒砥」(昭和22.3)を使用したものである

在:白鷹町栃窪
地形図:荒砥/荒砥
形態:山中に家屋が集まる
標高:約350m
訪問:2017年11

 

 大字栃窪の南部、最上(もがみ)川左岸側の山中にある
 町史および資料『栃窪の歴史』によると、昭和46年11月に当時の全38戸が集団移転し無住となったとのこと。最大で57戸。移転は町が国や県の指導・援助を受け推進・実施したものであり、昭和42年頃から離村に至るまで複数に亘る意向調査・懇談会・討議・現地調査等が重ねられた。昭和44年8月の栃窪地区座談会において集団移転の意思を確認。町長への陳情書に全員が署名し提出。多くの世帯が町内鮎貝(あゆかい)の柏原に設けられた新興住宅地へ転居。この住宅地には、荒山の4戸と姫城(ひめじょう)開拓の3戸も入居している。
鎮守は山神社。寺院に慶国寺(曹洞宗。山号は秀里山)があった。正保年間(1647)創設。明治13年焼失、同21年再築。集団移転時にご本尊その他を住宅に遷された。
農業は青苧(カラムシ)が主であったが、役馬の秣場を作るのに必要であった山火入れが大正時代に警察の許可が必要(のち禁止)となり衰退。養蚕も古くから行われていたが、盛んになったのは明治以降。青苧が衰退した後は、青苧畑から転作された桑畑が急増した。ほか茅や木炭の製造が収入源であった。
明治後期、栃窪鉱泉(後の稲荷鉱泉)発見。明治末期鉱泉場設置。評判となり、来客も多かったという。
大正8年電灯導入。昭和42年3月水道工事完成。昭和33年、区長宅に公衆電話設置。移転に伴い廃止。
以下は
戸口の変遷。

  明治元 明治10 明治32 明治37 明治40 明治42 大正元 昭和元 昭和10 昭和20 昭和25

昭和30

昭和35 昭和40 昭和43 昭和45 昭和46
戸数 41 44 43 46 47 47 50 55 55 57 52 49 48 46 41 38 38
人口 244 292 315 368 369 380 380 383 353 316 303 287 244 212 189 193

以下は居住者の一覧(集団移転した世帯以外のものは、本文に誤記がある可能性がある)。

No. 明治12 昭和3 昭和46 (時期不明。転出先のみ記載) 転出先
1 土屋 同左 同左   柏原団地
2 同左 同左  
3 渋谷 同左 同左  
4 土屋 同左   神奈川県川崎市
5 同左 同左   柏原団地
6 同左 同左  
7 渋谷 同左 同左  
8 同左 同左  
9 土屋 同左 同左  
10 同左   大江町
11 同左 同左   柏原団地
12 同左   神奈川県相模原市
13 長谷部 同左   長井市
14 同左 同左   柏原団地
15 斎藤   大江町
16 同左 同左   町内横田尻
17 土屋 同左 同左   柏原団地
18   北海道
19 同左   町内鮎貝(あゆかい)
20 同左 同左   柏原団地
21 同左 同左  
22 同左 同左  
23 (慶国寺) 同左 同左(井上)   町営住宅
24 土屋 同左   町内鮎貝
25 斎藤 同左  
26 土屋   町内荒砥(あらと)
27 同左   静岡県三島市
28 長谷部 同左   (記載なし)
29 土屋 同左 同左   柏原団地
30 同左 同左  
31 同左 同左  
32 土屋 同左 同左  
33 斎藤 同左   町内深山(みやま)
34 土屋 同左 同左   町営住宅
35 同左   埼玉県/長井市(※1)
36 渋谷   (記載なし)
37 土屋 同左 同左   千葉県成田市/町内鮎貝(※2)
38   (記載なし)
39 同左 同左   柏原団地
40 同左 同左  
41 同左 同左  
42 同左 同左  
43 斎藤 同左   東京都中野区
44 同左 同左   柏原団地
45   土屋(24分家) 遠藤(24分家)   ※4
46   斎藤(43分家) 同左   柏原団地
47   土屋(1分家) 同左  
48   伊藤(荒砥より移住)   断絶
49   土屋(4分家)   断絶
50   渋谷(8分家)   断絶
51   土屋(19分家) 同左   柏原団地
52   鈴木(西五百川村【現・朝日町】松程より移住)   断絶
53   土屋(20分家) 同左   町営住宅
54   土屋(19分家) 同左   柏原団地
55   横沢(27分家) 同左  
56   渋谷(7分家) 同左  
57   土屋(2分家)   神奈川県横浜市
58   菅(31分家)   山形市
59   佐藤(37分家) 同左   柏原団地
60   菅(35分家) 同左  
61   斎藤(43分家) 同左  
62       渋谷(※3) 町内鮎貝
63       土屋(10分家) 町内鮎貝
64       土屋(24分家) (※4)
65       渋谷(8分家) 上ノ山(※5)
66       長谷部(14分家) 神奈川県相模原市

※1 菅氏(No.35)の家筋(「分家」の記載なし)が2世帯掲載されており、それぞれの転出先
※2 土屋氏(No.37)の家筋(「分家」の記載なし)が2世帯掲載されており、それぞれの転出先。ただし昭和46年に居住している人物は成田市
※3 明治12年の居住者の本家筋であるようだが、明治12年に該当する人物は見られない。
※4 いずれも土屋氏(No.24)の分家だが、遠藤氏の転出先は記載はなく、さらに遠藤氏とNo.64の土屋氏は同一人物ではないよう
※5 上山市のことか


 また「角川」によると、大字栃窪は近世の置賜郡栃窪村。明治22年鮎貝村(のち白鷹町)の大字となる。慶長頃38戸164人、文政9年51戸245人、明治11年40戸263人。明治10年深山(みやま)小学校栃窪分校開設。明治25年栃窪尋常小学校。明治42年朝日小学校に統合。大正9年鮎貝小学校の分校開設。HEYANEKO氏によると、昭和47年閉校。

 現地では墓地や学校跡・神社跡のほか、かつての住民が設けたと思われる家屋や多数の屋敷跡が見られた。訪問中に日没となったため、全容は把握できず。

 


写真1 石造物群。右は馬頭観世音、左は何かの記念碑(『栃窪の歴史』掲載の「新道記念碑」か)

写真2 石塔群。左より「八日塔」「馬頭觀世音」「湯殿山」「大神宮」とある

写真3 墓地にて

写真4 学校跡。左には「杤窪村墾田之碑」と「栃窪分校跡」の碑

写真5 神社。鳥居と石段

写真6 神社。社殿跡?

写真7 家屋

写真8 家屋

写真9 屋敷跡

写真10 屋敷跡にて

写真11 屋敷跡にて

写真12 屋敷跡

写真13 屋敷跡

写真14 屋敷跡

写真15 屋敷跡

写真16 何かの記念碑

写真17 何かの遺構

 

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