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◆永松(ながまつ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「月山」(昭和22.1)を使用したものである

所在:大蔵村南山(みなみやま)
地形図:葉山/月山
形態:谷沿いに家屋や施設が多数集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:各細目参照
訪問:2018年11月(赤沢・赤沢向・上岱・川前・大切)・2019年11月(中切・〔からみ〕坂)

 

 大字南山の南部、銅山川(=烏(からす)川。最上(もがみ)川支流)とその支流沿いにある。主に銅を産出した永松鉱山に伴う鉱山集落。
 
村史より、主な沿革は以下のとおり。

慶長16(1611)年、現在の西川町間沢の荒木源内なる人物が烏川の奥で銅山を発見。数箇所に坑口を作り採鉱を始めたといわれる。
寛文年間(1661-72)、源内(2代目か)が江戸の銭座2名を金主につけ、鉱夫を雇い盛んに採掘。
延宝5(1677)年(あるいは7年とも)、源内が大永松に登った際、山中で鶏鳴を聞き、そこを調べると大鉱脈を発見。新庄藩より採掘の許可を得た。
延宝7(1679)年、大阪の町人大阪屋久左エ門が採鉱開始。
天和3(1683)年、大阪の町人若狭屋茂右エ門の採掘となる。
この頃最盛期で、平均1箇年の粗銅産出量が全国第3位となっている。
正徳5(1715)年休山。
享保2(1717)年、藩の直営で経営開始。
享保5(1720)年、請負制となり、大阪屋永次郎(久左エ門の孫)が永松に手代を置く。
延享2(1745)年、博多屋勘右エ門・小西屋喜右エ門の採掘となる(2年で休止)。
その後も休山・再興を繰り返すが、宝暦頃(1751-64)は活況を呈していたよう。寛政(1789-1801)以降も、活況は見せないものの休止することなく盛衰を繰り返した。
明治に入り鉱山は一時政府の専有となったが、のち村井定吉の所有となり小規模な採掘が続けられた。
明治24年11月、古河市兵衛の所有となる。翌年大鉱脈を発見し、精錬所を建設。
明治30年頃になると、鉱脈が相次いで発見され産出量も増加。人口およそ3,500人を数えたといわれる。
明治40年代には新技術の導入・機械化が進み、同44年永松‐幸生(さちう)間に架空索道を設置。人馬・橇に頼っていた物資の輸送が改善された。大正2年8月自家発電所、同3年には機械選鉱場完成。大正4年5月、第一次世界大戦の影響もあり精錬所を拡大。大正6年には従業員1,200人超、銅の産出量800t超となり、この頃は明治以降において最高の盛況を見せる。
大戦後は大不況となり低迷していたが、探鉱の末大鉱脈を発見。昭和5年大切坑道にガソリン機関車導入、同13年11月より硫化鉄鉱の産出も開始。
太平洋戦争中の乱掘により不振となり、昭和25年自山での精錬を中止。
選鉱の後は日光精錬所に送られるようになる。その後大幅な人員整理・事業の縮小を行う。さらに銅の価格の値下がりなどで経営が逼迫し、昭和35年には第二会社の設立が提案された。
昭和36年3月、会社側より鉱業所について閉山が提案される。種々の会合・労使交渉の末、同年4月5日閉山が決定。同14日閉山式挙行。

 また当地には永松小学校があったが、これは明治33年6月6日鉱山直営の私立小学校として創立。昭和7年には後の大蔵小学校の分教場となり、昭和24年独立、永松小学校となる。永松中学校も昭和24年分校から独立校となった(開校に関する記載なし)。しかし閉山直前の昭和36年1月9日、失火により小中学校校舎が全焼。昭和36年7月31日閉校した。閉山決定まで児童・生徒数併せて100人を下回ることがなかったが、閉校式当日には僅か11人であった。

 HEYANEKO氏より提供の「永松局郵便区全図」(昭和28年)によると、居住区として概ね西側より赤沢・赤沢向・上岱(うわだい)・川前・大切(おおぎり)・中切(ちゅうぎり)・〓【金へんに爰】坂(からみさか)といった小地区があったことが分かる。
 訪問は国道458号線の十部一(じゅうぶいち)峠から分岐する永松林道(写真1)より。林道は赤沢・赤沢向のみに通じ、他の地区の訪問はやや困難。

 


写真1 永松林道起点


≪赤沢・赤沢向≫

標高:約500m


 銅山川(烏川)と赤沢との合流部付近にある。
 
参考サイトによると、精錬所勤務者の住宅や合宿所、営林署の分署があったとのこと。先の「永松局郵便区全図」では、配達先が赤沢に21箇所、赤沢向に25箇所となっている。
 赤沢ではいくらかの遺構が確認できたが、赤沢向では山林内も含めこれといった痕跡は確認できず。住居は川に近い位置にあったようだが、堰堤(写真12)を建造した際に元の土地の地形が変わった可能性がある。

 


写真2 集落遠景(ズリ山より撮影。正面の谷の左側が赤沢、右側が赤沢向)

写真3 集落跡。道路沿いの風景(以下赤沢)

写真4 集落跡にて

写真5 遺構

写真6 石積み

写真7 遺構

写真8 何かの遺構

写真9 銅山川(烏川)の橋の跡。対岸は川前・中切方面

写真10 赤沢に架かる橋(赤沢向側より撮影)

写真11 平坦地(赤沢向)

写真12 堰堤


≪上岱≫

標高:約540m

 赤沢後方の山中にある。
 
参考サイトによると、3棟の長屋があり9世帯が暮らしていたとのこと。先の「永松局郵便区全図」では、配達先が9箇所となっており、これらはすべて住居であったよう。
 赤沢からの道は現在でも追うことができるが、平坦地に到達した部分は笹藪に覆われ、住宅跡への到達に難儀する。現地では長屋の遺構と、その後方に石塔が置かれた一角を確認。

 


写真13 上岱への道

写真14 現地の風景

写真15 地面の槽

写真16 長屋の基礎

写真17 地面の槽

写真18 長屋の基礎

写真19 ビール壜

写真20 何かの残骸。長屋の跡地に、複数が規則的に置かれている

写真21 巨樹と石塔。「弔魂」「大正九年八月」「永松鑛山一同」とある

写真22 石塔。「鑛人招魂碑」「昭和拾八年拾月建之 永松鑛業所」とある


≪事業中心部≫

標高:約530〜570m

 銅山川(烏川)右岸斜面にある。選鉱場や精錬所など、主要な施設が集まっていた地区。索道の発着点もここにあった。

 


写真23 精錬所跡?の平坦地

写真24 写真23敷地の遺構

写真25 同

写真26 石垣

写真27 写真12の俯瞰

写真28 カラミ煉瓦の石垣

写真29 シックナー

写真30 選鉱場跡?

写真31 遺構

写真32 施設の隧道

写真33 写真21の出口

写真34 遺構

写真35 選鉱場の遺構?

写真36 シックナー

写真37 遺構

写真38 シックナー

写真39 遺構

写真40 ズリ


≪川前≫

標高:約490m

 銅山川(烏川)右岸にある。
 
参考サイトによると、選鉱・精錬所関係の技術者・専門職が多く暮らし、グラウンドや発電所があったとのこと。先の「永松局郵便区全図」では、配達先が28箇所となっている。
 いくらかの遺構を確認したが、下流側は藪となり探索は困難。

 


写真41 集落遠景(ズリ山より撮影)

写真42 建物跡

写真43 同

写真44 同

写真45 平坦地

写真46 溝渠

写真47 住宅跡

写真48 同

写真49 平坦地

写真50 集落より山を仰望


≪大切≫

標高:下流側―約580m 上流側―約590m

 銅山川(烏川)の右岸支流沿いにある。
 
参考サイトによると、学校・駐在所・所長宅・本局・医局・郵便局・電話局・購買所・早坂合宿・山神社などがあったとのこと。先の「永松局郵便区全図」では、配達先が12箇所となっている。
 ズリ山の上端より旧道の取り付きを確認し、現地に到達。ただし笹や灌木のため通行に難儀する。まず下流側の街区に到達し、学校跡や所長宅跡と思われる区劃を確認。さらに上流に進み、谷が合流する部分では本局(鉱業事務所)跡や変電所跡、山神社の跡を確認した。

 


写真51 集落内の道(以下下流側)

写真52 建物の遺構

写真53 石積み

写真54 道から校地?へ降りる階段

写真55 六角形の池。学校前の噴水か

写真56 校舎跡?(池の西側)

写真57 同?(池の東側)

写真58 道沿いの石積み

写真59 所長宅跡?

写真60 写真59の遺構

写真61 同

写真62 合流部の風景。正面は変電所跡か(以下上流側)

写真63 本局跡?

写真64 同。写真中央の盛り上がりは、郵便ポストの基部か

写真64 本局跡?の基礎

写真65 山神社の石段

写真66 神社にて。灯籠

写真67 中切方面への道


≪中切≫

標高:約700〜730m

 銅山川(烏川)の右岸支流沿いにある。
 
参考サイトによると、主に坑内の労働者の社宅や分校があったとのこと。先の「永松局郵便区全図」では、配達先が32箇所となっている。
 なお村史によると、昭和11年4月13日に中切において大雪崩が発生。住宅3棟8戸が巻き込まれ、うち3戸が埋没し11名の犠牲者があったという。公には10名となっているが(『山形県警察史年表』)、編者による聞き取りや新聞記事の調査により11名であったことが判明している。これは村内最大の雪崩事故であった。
 また
HEYANEKO氏によると、当地にあった学校は永松小学校中切冬季分校で、閉校は本校と同じく昭和36年。
 大切より道を追い訪問を試みたが、途中で道を失ったことや帰路での冬期通行止めの時間が迫っていたこともあり、訪問に至らず。

 2019年改めて訪問。林道より適当に見当をつけ尾根に登り、旧来の道(地形図上で834mの標高点を通る徒歩道)に合流。尾根の北側へ回り谷に近づくと、建物の遺構が見られる平坦地に行き着く。ここからからみ坂に向かう道筋は、段々になった社宅の跡地。さらに対岸(先の地形図で神社の記号がある場所)へ渡った所にも段になった土地と建物の遺構が確認できるが、古い地形図に記されている神社と思われる遺構は確認できず。また学校跡の位置も不明。
 なお大切方面へ通じる道や右岸へ渡る道は消滅しており、それぞれの行き来はやや困難を伴う。

 


写真68 尾根を巻く道

写真69 平坦地(以下左岸下流)

写真70 遺構

写真71 何かの木材

写真72 遺構

写真73 谷際の遺構

写真74 建物の基礎

写真75 社宅跡(以下上流)

写真76 同

写真77 同

写真78 瀬戸物片

写真79 建物の基礎

写真80 構造物(谷筋)

写真81 建物の基礎(以下右岸)

写真82 遺構

写真83 平坦地

写真84 平坦地

写真85 遺構

写真86 石積み

写真87 コンクリートの構造物

写真88 何かの横穴

写真89 平坦地

写真90 平坦地


≪〔からみ〕坂≫

標高:約780m

 銅山川(烏川)の右岸支流の上流部にある。
 
参考サイトより、当地には社宅があったことが分かる。先の「永松局郵便区全図」では、配達先が20箇所となっている。
 2018年訪問時は中切とともに訪問には至らなかったが、2019年中切の訪問とともに当地にも足を延ばすことができた。
 現地はカラミ(あるいはズリ?)により造成された土地もあり、これが地名の由来となったことが窺える。はっきりと何かの遺構が見られたのは2箇所のみだが、元来さほど規模の大きな集落ではなかったよう。

 


写真91 中切−からみ坂間の道

写真92 集落遠景(写真中央)

写真93 建物跡

写真94 瀬戸物片

写真95 遺構


写真96 建物の基礎

 

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