◆山刀伐(なたぎり)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「鳴子」(昭和22.6)および国土地理院発行の同地形図(昭和43.11)を使用したものである
所在:尾花沢市市野々(いちのの)
地形図:羽前赤倉/鳴子
形態:緩い谷沿いに家屋が集まる
標高:約420m
訪問:2018年11月
大字市野々の北東部。山刀伐峠の南にある。
市野々で伺った話によると、最盛期は6軒ほどで、離村は昭和10年代ではないかとのこと。水田が耕作されていたという。戦後になり、食糧増産で畑地が開墾された時期もあった。
なお村山市史に「昭和三十八年ごろ、(中略)尾花沢山刃伐(本文ママ)開拓地が離散」とあり、記述の内容から開拓・耕作に伴う居住もあったことが窺える。
現地では南部の県道沿いに現在でも耕作されている農地が見られ、旧道沿いでも農地跡や茶屋跡を示す看板が2枚見られた(下流側より「三吉茶屋跡」、「与一の茶屋跡」)。ただし前者の付近には平坦地が見られず、その跡地は不明。
また旧道の峠には、地蔵堂(舟形の猿羽地蔵と兄弟といわれ、子宝地蔵として信仰された)(写真11)や「おくのほそ道」の一節を刻んだ碑(写真12)がある。
峠にある案内板によると、山刀峠は中世の頃は南部地方(岩手)と最上(山形村山)とを結ぶ要路で、出羽三山の参詣道でもあったという。江戸時代には現在の最上町と尾花沢を結ぶ間道の一つとなり、付近の村人や杣人が利用する程度であった。
また俳人・松尾芭蕉と門下の曾良が元禄2(1689)年に越えた道で、後の「おくのほそ道」でも「高山森々として 一鳥声きかず 木の下闇茂りあひて夜行くがごとし」と綴られるほどの最大の難所であった。当時はブナの原生林に覆われた道であったが、昭和初期の道路改修によって荒廃(※)。
さらに「山刀伐」の地名は、北側の道が「二十七曲がり」と喩えられる急峻な地形であるのに対し、南側はなだらかな地形をしており、その形状が被り物の「なたぎり」に似ていることから発祥したといわれている。
※ 現在は散策路として整備されている
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