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◆二ッ掛(ふたつかけ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「大鳥池」(昭和21.11)を使用したものである

所在:西川町大井沢(おおいさわ)
地形図:赤見堂岳/大鳥池
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約390m(水面は約420m)
訪問:2017年11

 

 大字大井沢の北東部、寒河江川沿いにある。右岸の「二ッ掛」と左岸の「片寄」の小地区からなる。現在はいずれも寒河江ダムの人造湖(月山(がっさん)湖)にほとんどが水没(ダム建設の経緯については、砂子関のページを参照)。
 現在は左岸に「二ッ掛古里の碑」(写真2)が、右岸に碑などの石造物が集められた一角(写真5)がある。農地跡など普段は水没を免れている場所もあるが、訪問時は特に水量が多い時期であったため未確認。
 町史や碑によると、ダム建設により昭和51年10月に全戸が移転したとのこと。二ッ掛15戸、片寄4戸。山之神神社があったが、町内本道寺(ほんどうじ)の湯殿山神社敷地内に移転。移転者の内訳は、武田11・前田6・佐藤2。月岡(つきおか)の枝郷であった。
 以下は「由来」と題された碑の全文。


 由来

私達の古里二ッ掛は北に月山の霊峰西に石見堂岳を仰ぎ南に豪壮な山岳美を誇る朝日連峰を望見し東に断崖と溪谷のある四方山に囲まれ前に寒河江川の清流南北に流れ四季それぞれ自然美の景観を誇る山里の部落であった。祖先はこの地を子孫繁栄の安住の地と定め古より開拓し人情豊に平和であれとの教訓は永い歴史に培われて来た。この教訓こそ子孫の私達にとって何物にも優る誇りであった山の幸川の幸の豊富な資源は住む人々の心を豊に人情を厚く神佛への信仰心をも篤くした経済的に自給自足の誇をもって継承されて来た古里は明治以来本道寺にさらに昭和に西川町へと変遷した。然るに思もよらない寒河江ダム建設という未曽有の出来事に逢着した私達はこれに対し個々の感情や利害を捨て大同団結して全面協力に踏み切り円満妥結と言う輝しい記録を残した我々は公共の福祉のため悠久の大義に生きて手塩にかけた樹木を伐り家を解体し先祖の遺骨を抱いて夫々に安住の地を求めて移転した。今ここに消え去った平和のふるさと二ッ掛の名を後世に伝え歴史の一頁に残し寒河江ダムの永遠の安全を杵祈念し未だ見ぬ子孫等に我々の心を伝えるべくこの碑を建立した。


 なおHEYANEKO氏によると、当地には月山沢(つきやまざわ)小学校二ッ掛冬季分校があったとのこと(昭和51年閉校)。資料『西川町史年表』によると、明治32年に冬季分校として開設。

 


(写真1 ダム堰堤)

写真2 碑(以下片寄)

写真3 水面

写真4 対岸から集落跡付近を望む


写真5 石造物群。右から二ッ掛供養塔・寒河江ダム安全大明神・「由来」の碑・歌碑
(以下二ッ掛)


写真6 対岸から集落跡付近を望む

写真7 ジオラマ(最上川ダム統合管理事務所にて)

 

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