◆菅沼(すがぬま)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「玉庭」(昭和22.3)を使用したものである
所在:飯豊町須郷(すごう)
地形図:玉庭/玉庭
形態:山中に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約380m
訪問:2017年11月
大字須郷の中部、広河原川(最上(もがみ)川二次支流)右岸側の山中にある。白川ダムの建設に伴い離村したが水没はしておらず、主要地域の水没に伴い離村。読みは「角川」の小字一覧のルビに拠った
1970年代の航空写真には既に建物は見られなくなっているものの、現在は管理された家屋など少しの建造物も散見される。神社の跡地には離村を記念した「望郷之碑」と「角屋近仁君碑」などが置かれている(写真3)。資料『ダムに沈んだ村の伝承』によると、角屋近仁(角屋圜右衛門近仁)氏は米沢藩の藩士で、当地に招聘され寺子屋で教育を行っていたという。のち明治になり中津川小学校が開校し、初代校長に迎えられた。
以下は「望郷之碑」の碑文。
この地菅沼は風光明眉(表記ママ)にして地味豊かに且つ太陽に恵まれ将に桃源郷たり故に千古より祖先以来安住して現在に至れり然るに白川湖建設により近隣百余戸及公共施設悉く水没して孤立の状態となり生計すること能わず昭和四十五年墳墓の地を〓(※1)れ四散するの止むなきに至りぬされど祖先を偲ぶの情故山を憶うの念年を経て益々深く鎮守山ノ神の社跡に碑を建て後世に残すものなり
昭和五十六年七月
※1 「離」の左側
また同碑には、井上・高橋・高橋・高橋・渡部・渡部・井上・高橋・高橋・伊藤・村山の各氏の名が刻まれている。
道路を挟んだ一角には「経塚桜」がある(写真8)。以下は説明板「経塚桜の由来」の全文。
大同三年(八〇八年)弘法大師が東北地方を巡錫され、この地菅沼に一夜の宿を求められた折、この台地が地滑りの被害に悩まされていることをお聞きになった。不憫に思われた大師は、地滑り止めの秘法を施され、大乗経典一巻をこの丘に埋封し、持っておられた桜の杖を立て「此の杖はやがて根を張り枝葉を生じて長くこの地を守るであろう。」との言葉を残して去られたと云う。
大師の言葉に違わず、杖はやがて芽ぶいて成長し、美しい花を咲かせるようになった。その後幾星霜
この台地には大きな地滑りは無く今もなお小康を保っている。村人たちは大師の大慈悲に感じ入り、此の丘を経塚と呼び、桜樹の下に大師堂を建て、大師の恩徳を偲んでいたのであった。
されどこの桜樹も樹齢千年を越えた頃から樹勢次第に衰え、昭和の後期に寿命が尽きて倒れ、土に還ったのである。大師堂もその下敷きになって押し潰されてしまった。けれど千年を越えた桜樹には不滅の生命が宿っていたのか、埋封された大乗経典の功徳か、それとも大師の念力によってか、土に還った筈の桜樹の根元から奇跡的に若木が芽生えて、経塚の千年桜二世に成長したのである。
千年桜と大師堂を守り続けてきた菅沼の集落十一戸も白川ダム建設に伴い四散し今は誰もいない。
以上先人の口碑の概略を録し経塚千年桜二世の成長を祈念する。
一九九七年五月吉日 菅沼会建之
さらに集落の北西の外れには草木塔(※2)(写真9)が建っているが、民間企業が付近に森林を所有した際に設けられたものであり、集落とは深い関わりがあるものではないよう。
※2 草木(そうもく)塔は、草木に感謝しその生長を願って建てられる石碑。山形県置賜地方に集中して見られる
|