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◆大鹿(おおじか・おおしか)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「玉庭」(昭和22.3)を使用したものである

在:飯豊町高峰(たかみね)
地形図:玉庭/玉庭
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約290m(水面は約320m)
訪問:2017年11

 

 大字高峰の中部、白(しら)川(最上(もがみ)川支流)の左岸にある。現在は白川ダムの人造湖(白川湖)に水没。
 堰堤に近く集落は完全に水没しており、痕跡の確認はできない。読みは県道の橋梁「大鹿橋」の銘板および「角川」の小字一覧では「おおじか」となっている。

 町史より、ダム建設の主な流れは以下のとおり。

 昭和37  予備調査開始
 昭和40  長井市に建設省白川ダム調査出張所設置
 住民により「白川ダム対策同盟連合会」結成
 昭和42  羽越水害。ダム建設計画は、治水対策として緊急に実施されることになる
 昭和43  建設省から関係者に対し、ダムの経過及び実施計画調査の説明会が開かれる
 昭和45  建設省白川ダム調査出張は同工事事務所となる(4月)
 補償基準の発表(7月)、補償基準要綱妥結、協定書に調印(10月)
 昭和46  本格的な建設工事開始(11月)
 昭和47  移転・家屋解体完了(3月)

 昭和55

 完成(10月)

 また県道沿いの集落を見下ろす位置には緑地があり、「善意と信頼」・「治水治郷」と題された碑が置かれている(写真2)。以下はそれぞれの碑文。

(善意と信頼)
白川ダム建設にあたり湖底に沈む地域住民百数拾戸は白川ダム対策同盟連合会を基盤として男鹿久人氏等を軸に生活共同体破壊の忍び難きを強く訴え諸活動を展開されたが昭和四十二年の羽越豪雨などが契機となりダム建設の緊要性を認識し交渉にあたっては善意と信頼を基調にすべて話し合いにより解決する白川方式を樹立し総力を結集された幾世代と受け継がれ幾百年の苦楽を刻む郷土を離れた心情は誠に痛切であったろうと当時を偲びつゝ生活再建の■(※)多幸を祈り感謝をこめてここに其の名を銘るす

※ 判読できない字。「御」を意味するものと思われる

(治水治郷)
 建設譜
秀峰飯豊の山なみに源を発する白川の清流は 古来より置賜に豊かな恵みの水を与えてきたが 時として災害をもたらし 治水は流域住民の宿命的課題であった
昭和四十二年この地を襲った羽越豪雨がダム建設実現の世論となり最上川上流総合開発の一環として流域の長井市 飯豊町 川西町 白鷹町が白川ダム建設協力会を結成し 国 県等に早期実現を要請した
一方移転者等で組織された白川ダム対策同盟連合会は 善意と信頼を基調に補償交渉を進めこれまでに類をみない早期妥結となった
その決断には深く敬意を表する
工事着工以来十年 歴史的大事業は完成され 地域発展のゆるぎない礎が確立された
ここに先覚者 移転者 工事関係者並びに関係機関のご労苦に感謝し竣工記念の碑を建立する
昭和五十五年
 白川ダム建設協力会  長井市 飯豊町 川西町 白鷹町

 さらに洗尾橋の南詰には「愛郷の碑」があり(写真3)、矢渕南洗尾・大鹿・安導寺中ノ沢の移転者の名が刻まれている。碑及び町史によると、井上家3戸・本間家1戸の計4戸で、碑の掲載順にそれぞれ米沢市・山形市・町内・山形市に転出。以下は碑文。

霊峰飯豊山に源を発する白川の清流その母なる川白川のほろりに「生の流れ」を享け幾世代と生活を営んで来た私共が、ダム建設に伴って移転を余儀なくされた
下流々域を洪水から守り、更に県南を拓く利水の為の、この世紀の大事業白川ダムの完成を機に、湖底に眠る累代の墳墓の霊を慰め併て嘗て幾百年か苦楽を共にした部落とその人達の名を永くこの碑にとどめ、この白川ダムが地域發展に大きく寄与されることを希うものである
 昭和五十四年十一月一日

 また当地にあった学校は、手ノ子(てのこ)小学校大鹿分校。町史には「明治二十三年 高峯小学校の大鹿分校を新築移転す」「大鹿分教場が独立校舎として新築されたのは明治二十三年なので…」という記述があるが、開校の明確な記述は見当たらない(※)

※ HEYANEKO氏調べでは昭和47年休校、同58年閉校

 


(写真1 ダム堰堤)

写真2 緑地

写真3 碑

写真4 集落方面を望む

 

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