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◆一ッ沢(ひとつざわ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「荒砥」(昭和22.3)を使用したものである

在:朝日町立木(たてき)
地形図:太郎/荒砥
形態:川沿いから山中にかけて家屋が集まる
標高:堰沢―約480m 李平―約410m 萱野―約580m
訪問:2017年11

 

 大字立木の中部、タバネ沢(最上(もがみ)川二次支流)沿いにある。北から堰沢(せきざわ)・李平(すももだいら)・萱野(かやの)の3地区からなる。
 町史によると、昭和37、8年頃36戸あったものが同40年代に県外へ4戸、同45年以降は山形市へ5戸、天童市へ4戸、寒河江市へ3戸と離村が相次ぎ、同48年残っていた25戸が離村し無住となったとのこと。10月8日、学校(立木小学校一ッ沢分校)を会場として閉村式・閉校式挙行。
同11月、このうちの17戸と朝日鉱泉の1戸が町内宮宿(みやじゅく)の西原町営住宅に集団移転。他の世帯は天童や寒河江などへ移転した。
 集落の起こりは、元禄時代に栄えていた朝日銀山の採石夫が住み付き、狩猟や僅かな農地での耕作を始めたことからという。文化・文政時代頃から出羽三山信仰が広まり、置賜地区からの道者の往還道として賑わい、萱野には宿もあったという。近年は農業・炭焼きなどが生業であった。
 以下は児童数の推移。

年度 昭和34 昭和35 昭和36 昭和37 昭和38 昭和39 昭和40 昭和41 昭和42 昭和43 昭和44

昭和45

昭和46 昭和47 昭和48

児童数

39 40 43 39 35 34 31 27 23 23 19 17 11 7 3

 また資料『移転記念誌 ひとつざわ』によると、堰沢10戸、李平16戸、萱野4戸。立木小学校一ッ沢分校は、明治37年10月1日立木尋常小学校一ッ沢分教場として開設。また西五百川(にしいもがわ)中学校一ッ沢冬季分校が、昭和24年から同34年まで開校していた。
 なお同書中には堰沢14戸・李平13戸・萱野4戸の家と住民の写真が掲載されており、移転先も記されている。これによると、地区ごとの移転先は以下のとおり(全戸が阿部家)。なお萱野は早い時期に無住となったためか、移転先の記載はない。

・堰沢…町内宮宿10・天童市3・寒河江市1
・李平…町内宮宿7・山形市5・天童市1
・萱野…(記載なし)

 訪問は県道289号から分岐する林道一ッ沢線より。堰沢・李平ともに複数の宅地が見られ、李平ではいくらかの管理された建物も見られる。また学校跡には記念碑が建ち、遊具もいくらか残っており往時を偲ばせる。萱野では屋敷跡の特定には至らなかったが、それらしい平坦地が2箇所ほど。
 なお最近の地図では李平の対岸に神社の記号が記されているが、現地には農地跡があるものの神社があったような雰囲気はない(写真31)。

 


(写真1 県道〔右〕と一ッ沢林道〔左〕の分岐)
≪堰沢≫

写真2 倒潰家屋

写真3 倒潰家屋

写真4 屋敷跡

写真5 墓地にて

写真6 名号碑

写真7 石造物群(中央は「湯殿山」とある)
≪李平≫

写真8 建物

写真9 家屋

写真10 倒潰家屋

写真11 屋敷跡

写真12 屋敷跡

写真13 消火栓

写真14 水道施設

写真15 学校跡

写真16 学校跡の碑

写真17 学校跡にて。遊具

写真18 同

写真19 同
≪萱野≫

写真20 車道沿いの風景

写真21 電柱

写真22 溜め池?

写真23 樹木と石塔(「湯殿山」とある。裏側の根元にも「馬頭観世音」等がある)

写真24 墓地にて

写真25 屋敷跡?

写真26 屋敷跡?

写真27 農地跡
≪神社の記号付近(李平対岸)≫

写真28 馬頭観世音

写真29 建物跡

写真30 農地跡

写真31 神社の記号付近

 

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