◆荒湯(あらゆ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「鳴子」(昭和22.6)を使用したものである
所在:大崎市鳴子温泉鬼首(なるこおんせんおにこうべ)
地形図:鬼首/鳴子
形態:谷沿いに施設が集まる
離村の背景:本文参照
標高:約600m?
訪問:2018年11月
大字鬼首の西部、江合(えあい)川支流の上流部にある。高日向山の北側およそ1.0〜1.6qの付近で、水神峠の東。噴気地帯の「荒湯地獄」があり、かつては温泉地として賑わった。
町史によると、明治期にもっとも栄え、当時は栗原・遠田・登米方面の客が多かったという。谷を挟んで大きな2棟の宿舎を持つ旅館が1軒あった(経営は遊佐家)。湯治客に提供する味噌・醤油・菓子なども作り、山菜・薪炭・芻秣なども貯蔵しなければならなかったため、多くの建物があった。しかし大正4年に鳴子駅が開業すると当地付近の往来も減少し、温泉も市街地に近いものが栄えたので、湯治客が減少。生活の基盤を失い昭和に入って原台に移住した。
遊佐家の記録では、天正14(1586)年8月、遊佐長門なる者が今の荒湯を発見し、慶長3(1598)年以降役金を上納、傷病藩士の療養所に指定されたという。古くは「姥ノ湯」とも呼ばれた。その後しばしば廃湯となったが、寛文年間(1661-73)に遊佐市右衛門なる者が鳴子から鬼首の田代に移住、荒湯を再興した。宝永年間(1704-11)には湯元に居住。享保年間(1716-36)には玉造一円の温泉の中ではここがもっとも繁盛していた。
また当地は荒雄岳硫黄鉱山の一部で、水神峠を越えた片山地獄(下の「画像」)を中心として硫黄採掘が行われていた。本格的な操業は明治20年代以降で、数度の休山を経て昭和28年まで続けられた。
なお当地には学校も存在し、昭和14年4月に鬼首尋常小学校荒湯分教場が設置されている。鬼首鉱業株式会社事務長高橋氏の努力により実現。のち鬼首国民学校荒湯分教場となり、昭和20年12月14日廃止。
寺社としては大杉明神社・湯神社・不動堂があったが、昭和初期の廃湯以来廃止されている。
訪問時はかつて居住があったことを把握していなかったため、上の地図画像で採鉱地の記号がある付近を一瞥したのみ。旅館跡や墓地は未確認。平坦地には煉瓦や磁器のかけらがいくらか見られるが、硫黄採掘時の痕跡だろう。学校跡もこの平坦地か。
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