◆畑(はた)

※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「日詰」(昭和22.6)を使用したものである
所在:花巻市石鳥谷町大瀬川(いしどりやちょうおおせがわ)
地形図:志和/日詰
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:畑―約250m 割沢―約280m(水面は約260m)
訪問:2017年5月
大字大瀬川の中部、葛丸(くずまる)川(北上(きたかみ)川支流)沿いにある。現在は葛丸ダムの湛水に伴い多くが水没。
ダムサイトには集落の絵地図があり、「畑集落の証」として以下のような説明が添えられている。
この葛丸ダム湖底には、かつて畑集落があった。その畑集落の最初の住人は奥州平泉からの藤原氏一族であると語り伝えられている。
文治五年(一一八九年)、平家に於いて藤原泰衡が源義経を高館で襲い自害させた事件を機に、彼らは古老達の説得に応じて北行路を辿り、苦難の末に、ここに定住するに至った。
また、その後約六〇年を経た建長二年(一二五〇年)、大和の国(奈良県)からの藤原兼頼主従もこの地に居を構えたと伝えられている。
更に時が流れ、今では山王海ダム湖底に沈んでしまった山王海集落との交流が始まり、それまでの自給自足の生活から木炭の生産・販売などで活気を呈した。
分校を設置して子女の教育にも力を入れ、戸数一五戸、住民九九名の喜びも悲しみも幾年月の変遷を経て来たのであるが、昭和五十三年に於ける葛丸ダム築堤工事着工を前にして、それぞれ石鳥谷町好地々区内に移転した。
かつて大正七年(一九一八年)五月二日に宮澤賢治も土性調査の為に訪れたこともある、ありし日の畑集落民の貴重な史実が刻まれて居た事を偲び、敬愛の念をもってここに識す。
平成二十四年三月吉日
往時の家々は以下のとおり(概ね上流側より)。
番号 |
地区 |
屋号 |
姓 |
水没 |
1 |
割沢 |
割沢 |
藤原 |
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2 |
〃 |
長洞 |
〃 |
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3 |
〃 |
畠山 |
畠山 |
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4 |
畑 |
畑 |
藤原 |
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5 |
〃 |
周作 |
〃 |
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6 |
〃 |
長洞分家 |
〃 |
〇 |
7 |
〃 |
曲戸(清水) |
〃 |
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8 |
〃 |
曲戸分家 |
〃 |
〇 |
9 |
〃 |
北ノ沢 |
〃 |
〇 |
10 |
〃 |
周作分家 |
〃 |
〇 |
11 |
〃 |
沢口 |
〃 |
〇 |
12 |
〃 |
橋元 |
石井 |
〇 |
13 |
〃 |
西田 |
佐々木 |
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14 |
〃 |
小桧山 |
〃 |
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15 |
〃 |
小桧山分家 |
〃 |
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ほか畑地区に大瀬川小学校畑分校・教員宿舎・公民館・発電所・山神社・稲荷社・墓地があった。
町史およびに資料『聞き書きいしどりや』よると、学校の主な変遷は以下のとおり。
大正6 |
私塾開設 |
昭和3 |
教育所開設 |
昭和4.8 |
焼失。9月移転 |
昭和9.4.30 |
大瀬川尋常小学校畑分室設置 |
昭和10.6.4 |
大瀬川尋常小学校畑分教場となる |
昭和22.4.1 |
大瀬川小学校畑分校となる |
昭和44 |
閉校 |
現在は集落の大部分が水没しているが、下流と上流の一部が水没を免れている。このうち下流部(堰堤より下。No.13-15)は未確認。墓地及びNo.4・5は葛丸大橋北側の湖畔だが、整地された平坦地であるのか遺構は皆無(写真6)。上流の割沢地区は全戸が水没を免れ、このうちNo.1・2の屋敷跡が確認できた。
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