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◆砂子瀬(すなこせ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「川原平」(昭和22.1)および内務省地理調査所発行の同地形図「弘前」(昭和22.7)を使用したものである

所在:西目屋村砂子瀬
地形図:川原平/川原平 陸奥田代/弘前
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約180m
訪問:2016年5月

 

 大字砂子瀬の北部、岩木(いわき)川沿いにある。
 目屋ダムの建設に伴い全世帯が美山
(みやま) 湖に水没、湖岸に移転したが、のち目屋ダムを上回る貯水量の津軽ダムが建設され、2度の移転が行われた。現在は津軽白神湖に水没している。
 以下は村誌・資料『砂子瀬部落誌』・『砂子瀬・川原平の記憶』より当地の概要。

(集落)
目屋ダム水没以前で、下流より山神平(やまがみたい)・村元・水上・宮元(みやもと)・八光、目屋ダム水没以降で水上・宮元・尾太(おっぷ)・芦沢(あしざわ)
(=旧八光)といった地区があった。
・山神平…現在の津軽ダムの堤体付近。砂子瀬の支村。明治初期4戸、大正初期4戸、目屋ダム移転直前で10戸
・村元…砂子瀬の中心集落
・水上…村元より南側の山手。目屋ダム建設後も数戸が山手に移転
・宮元…上の地図画像で、学校及び神社の記号がある付近。目屋ダム建設後は山手に多数の世帯が移転
・八光…八光鉱山に伴い戦中から戦後にかけ一時的に形成された。目屋ダム移転後の芦沢地区に当たる。昭和22年閉山し集落も消滅
・尾太…尾太鉱山の職員や労働者が暮らす集落。宮元地区の南に隣接する形で集落が形成された。一戸建て社宅116戸、3戸建て社宅2棟、木造2階建てアパート1棟10戸、鉄筋3階建てアパート4棟48戸、鉄筋2階建てアパート7棟40戸、独身寮3棟49室。さらに尾太会館・集会所なども建設された。昭和53年閉山後は集落の施設も閉鎖されたが、すでに従業員も弘前からの通勤者が約半分を占めており、集落居住者も数十人程度になっていた
・芦沢…目屋ダム水没前の八光地区。目屋ダム建設後は多数の世帯が移転

(社寺)
神社はもと稲荷神社。明治6年、
川原平の稲荷神社とともに村内村市(むらいち)の鹿島神社に統合されたが、翌年戻された。明治8年(正式には16年)川原平の稲荷神社を分離。戦後、大山祇神社に変更
菩提寺は旧来より弘前に置かれていた

(主な生業)
・農業
 水田のほか、雑穀・トウモロコシ・大豆・小豆などを栽培。冷涼な気候のため、農業のみによる自給はできなかった。目屋ダム建設後は移転補償金でよそに田を買い、通いで農業をするようになった
・山仕事
 炭焼きは旧来より盛んに行われていたが、エネルギー革命により昭和20年代後半から30年代前半にかけて急激に衰退。昭和35年頃にはほとんど行われなくなった。昭和30年代より国有林における造林拡大が進み、砂子瀬・川原平の住民も営林署からの請負で奥目屋での造林作業に従事。また村内では林道が盛んに作られるようになり、土木作業員として関わる人もいた。昭和48年より造林の見直しが行われ、村内の林業も最盛期を終えた
・流し木
 山から伐り出した木を、伐採地から岩木川へ下ろし、岩木川の流れを利用して下流に運ぶ。道路が整備された昭和10年頃以降は、集落の土場までとなった。土場は砂子瀬に2箇所、川原平に1箇所。目屋ダムの完成に伴い廃絶
・鉱山
 砂子瀬・川原平周辺には尾太鉱山をはじめ、津軽鉱山や三沢鉱山、八光鉱山など多数の鉱山が散在。これらには砂子瀬・川原平からも多くの人が働きに出た。ただし山仕事のほうが収入が良かったため、地元民で鉱山のみで生活していた人は少なかった
※尾太鉱山
 大同2(807)年発見。明治期より休鉱していたものを、昭和27年に尾富工業株式会社により大規模に再興。昭和30年代前半は、全国的に閉山する鉱山もあり多くの人々が集まってきた。ただし当時は地元でも十分に山仕事で生活できたため、地元の人々はあまり鉱山に働きに出てはいなかった。しかし昭和40年頃から山仕事が下火になり、砂子瀬・川原平からも働きに出るようになった。昭和53年閉山。現在は新福舟株式会社により鉱毒処理が行われている
・その他
副業として狩猟や採集も行い、一部にマタギも存在していた。マタギは戦中に一時廃れ、昭和40年代に解消。山菜等の林産物は、後年になると貴重な収入源にもなった
昭和50年代以降、土木建築業への従事や弘前への通勤が目立つようになる。産業の空洞化に対し、村は地場産業の振興を試みる。砂子瀬ではきのこ栽培・温泉の掘削(後の美山湖温泉)・貸別荘(美山荘。尾太鉱山職員住宅を利用)などが行われた

(ダム)
・目屋ダム
昭和28年ダム工事事務所設置。昭和31年に住民による補償の調印が行われ、昭和34年12月18日竣工。村誌より、水没世帯(計86戸)は以下のとおり

砂子瀬地内転出世帯
山神平…工藤8・三上1
村元…佐藤14・工藤12・佐々木7・長内4・三上3・山内2・西沢・三浦各1
水上…工藤3・佐藤2・鈴木・古川・三上各1
宮元…三上3・長谷川1
不詳…倉光・畠山

集落外転出世帯
山神平…佐々木1
村元…工藤5・佐藤2・中山1
水上…佐々木1
不詳…工藤2

・津軽ダム
平成13年に住民による補償の調印が行われ、平成28年竣工。砂子瀬の全戸が移転。99戸(※)のうち、35戸が村内田代に、20戸が岩木町【現・弘前市】一町田(いっちょうだ)に、10戸が弘前市若葉(わかば)にそれぞれ集団移転。34戸がそれぞれ各自で移転。平成13年のうちにほとんどが移転している。移転世帯の主な姓と施設等は以下のとおり

水上…工藤・佐々木・古川・須藤ほか。大山祇神社
宮元…三上・工藤・佐藤・長内・山内ほか。公民館・美山湖温泉・JA支所
芦沢…工藤・佐藤・三上・佐々木・鈴木ほか。砂子瀬小学校・八光保育園

※ 『砂子瀬・川原平の記憶』より。村誌では113戸

(学校)
・砂子瀬小学校

 明治9  村市小学校砂小瀬分校創立
 明治15  独立。砂子瀬小学校となる
 明治20.4  砂子瀬簡易学校となる
 明治25.4  就将尋常小学校に併合、第三分教室となる(村誌)/第三分教場となる(『砂子瀬部落誌』・『砂子瀬・川原平の記憶』)
 昭和22.5  独立。砂子瀬小学校となる
 昭和31.5  目屋ダム建設のため校舎移転

 平成12.3.31

 閉校

・砂子瀬中学校
昭和22年開校。当初校舎がなく砂子瀬作業場を改造し授業開始(生徒39名)。昭和24年2月28日校舎竣工。昭和47年閉校。

 


写真1 津軽ダム堤体

≪山神平≫


写真2 集落付近

≪村元・水上≫


写真3 水上を望む(砂子瀬橋より)


写真4 旧道(手前)と現県道の砂子瀬橋(左上)(以下水上)


写真5 集落風景にて


写真6 丁字路


写真7 看板


写真8 祠の屋根?

≪宮元≫


写真9 集落付近

≪尾太≫


写真10 集落方面を望む(砂子瀬橋より)


写真11 集落を望む


写真12 遺構


写真13 集落風景。右は現県道沿いの除雪車車庫


写真14 集落風景


写真15 施設群跡


写真16 施設跡


写真17 シックナー跡


写真18 何かの跡


(写真19 鉱廃水処理場)

≪芦沢≫


写真20 集落風景


写真21 集落にて


写真22


写真23 道


写真24 側溝


写真25 溝


写真26 道


写真27 何かの遺構


写真28 往時の風景(ダムサイトにて撮影)

 

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