◆世増(よまさり)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「三戸」(昭和21.11)を使用したものである
所在:八戸市南郷島守(なんごうしまもり)
地形図:市野沢/三戸
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約70m(水面は約90m)
訪問:2017年5月
大字島森の西部、新井田(にいだ)川沿いにある。現在は世増ダムの人造湖(青葉湖)に水没。
村史および地方紙「東奥日報」「デーリー東北」によると、世増ダムは平成12年3月に本体の工事が開始し、同15年1月完成(10月完工式)。計画の浮上は昭和40年頃。昭和63年水没補償協定が締結され、交渉は妥結した(9月13日世増ダム地権者協議会、12月27日世増ダム水没者協議会がそれぞれ協定書に調印)。平成2年、水没世帯の移転完了。平成15年6月には世増ダム地権者協議会は解散した。
なお明治40年までには島守小学校の分教場が設置されていたが、これは昭和9年に廃止。
現地は完全に水没しており、往時の痕跡は確認できない。移転先のひとつである東台にある集会所には「拓地望郷」と題した移転記念碑(平成4年設置)(写真3)が建つ。以下はその碑文。
昭和四十年、開田を目的とした三陸平原地域パイロット事業構想は、その後八戸平原地域開拓パイロット事業として農林省直轄事業に指定されるが、昭和四十四年米の生産過剰等諸情勢の大きな変化により開田は中止となり、翌年開畑に計画変更をすることになったのである。この八戸平原開拓建設事業の根幹をなすのが、地域の水瓶としての世増ダムの建設でありました。
世増ダム建設により水没する、世増、畑内、岩手県を含む水吉地区は、島守盆地の上流四―六kmの所にあり、集落の中央を流れる新田川流域に沿って住居が形成され、南郷村の最南端に位置する自然環境に恵まれた郷である。歴史的には、水没部落周辺から発掘された石器等の特徴から縄文時代頃既に人が住みついていたと推定され、又平家の落人伝説も語り継がれてきた古い歴史をもつ郷でもある。この様な所を安住の地と定め、我々の祖先から受け継がれてきた愛すべき郷が、昭和六十三年九月三十日の世増ダム建設に係る損失補償基準本協定締結、翌平成元年三月十五日事業用地の譲渡契約の成立により、湖底に没することになったのである。
二十四年余りに及ぶ苦悩の末に、国策に協力する大儀の基に同志相図りて、湖の東の高台にある三十郎久保という所を生活再建の地とし、東台と命名し平成三年三月に生活
基盤の完成をみる。
今は亡き祖先を世増ダム湖の東の台地から偲び、生活再建の地である東台での子孫の永遠なる繁栄を願い、その思いを拓地望郷の言葉に託し、ここに記念碑を建立するものである。
また南郷歴史民俗資料館にある展示家屋は、当地から移設されたもの(写真4)。
ダム湖周辺には小さな公園が散在しているが、そこにある看板のひとつに「世増の由来」が記されている。以下はその説明。
昔、年の瀬もせまった寒い夕暮れ時、物売りが来たが、どの家もその日暮らしで見向きもしてくれませんでした。そして、最後に訪れたのは地頭様の家でした。
地頭様は物売りに親切にし、四丁の鉞(まさかり)を買いました。
その鉞の切れ味は見事で仕事ははかどり、「四鉞」(よまさかり)の名がついたということです。
その後、四鉞のお陰でその地域は栄え、今の「世増」に変わったということです。
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