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◆夕張(ゆうばり)炭礦
(北炭(ほくたん)夕張炭礦)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「夕張」(昭和43.10)および同「石狩鹿島」(昭和37.10)を使用したものである

在:本文参照
地形図:夕張/夕張 シューパロ湖/石狩鹿島
形態:川沿いに家屋や施設が多数集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約330〜550m(居住区)
訪問:2013年6月

 

 市の東部、志幌加別(しほろかべつ)川沿いにある炭礦集落。
 「夕張炭礦」の名称は広義に夕張市内の炭礦群を指すが、ここでは北海道炭礦汽船による狭義の夕張炭礦(北炭夕張炭礦)の集落について述べる。
 市史によると、当地での採炭開始は明治23年。昭和57年
災害を機に閉山。昭和10年代以降、道内最高規模を誇る炭礦に成長している。なお炭輸送鉄道(のちの夕張線)の開通は明治25年。
 
左岸は下流より社光・高松・小松、右岸は住初・福住・富岡・錦(錦岡)・丁未の街区(いずれも独立した行政字)に細分される。うち社光・初住は現住。
 
以下断りのないものは、市史を参照にしている。

 

 

≪社光(しゃこう)

所在:夕張市社光
アクセント:シャコー

 

 市の中心部である「本町」の隣で、左岸に沿う約1kmの街区。現行の区域では一部右岸を含む。現在は炭礦施設の跡地を利用したテーマパーク「石炭の歴史村」をはじめ、観光施設・医療センター(往時の夕張炭鉱病院)等が置かれている。かつて夕張線(現在は石勝(せきしょう)線に併合)の終点・夕張駅はこの地にあった。また山腹斜面にも多数の住宅があったが、既に取り払われている。
 なお「角川」では昭和61年158戸382人。
 道営の集合住宅があり、現住。

 


写真1 往時の航空写真(石炭博物館にて)

写真2 旧夕張駅付近(手前)と炭礦住宅跡(奥)

写真3 炭礦住宅跡にて
 
写真4 同。何かの施設

 

≪住初(すみぞめ)

在:夕張市住初
アクセント:スゾメ

 

 社光の対岸、福住の隣。右岸に沿う約500mの街区。道道近くに僅かに家屋があり、現住。かつて山腹斜面にあった多数の住宅は、既に撤去されているよう。夕張神社がある。
 夕張神社は、明治34年に無格社「登川神社」として認可され、同35年現在地に拝殿を新築。大正12年夕張神社と改称。昭和38年新夕張神社・同50年若菜神社を合祀している。
 「角川」では昭和61年44戸110人。

 

 

◆◆写真はありません◆◆

 

 

≪福住(ふくずみ)

在:夕張市福住
アクセント:フズミ

 

 住初の隣。社光・高松の対岸。右岸に沿う約900mの街区。かつては山腹に福住小学校・北陵(ほくりょう)中学校、道道沿いに夕張第二小学校(のち旭小学校)があった。現在は石炭の歴史村公園の一部が区域に入っているのみで、目立った施設もない。夕張第二小学校の校舎は、閉校後宿泊施設として利用されていたようだが、現在は廃業している。裏にはバックネットのある広い平地が見られた。
 多数の炭礦住宅のほか、石炭博物館の航空写真によると第二砿第一分配所・洗心館・家政女学院・夕張鉱業所などもあったよう。
 以下は各学校の沿革。

(夕張第二小学校)
 明治37.1.1  (登川第二尋常小学校として開校。校区は市街地一区〜五区)
 明治38.3.31  現在地に移転。校区は夕張炭山地区・市街地一区
 明治39.9.6

 高等科併置。登川第二尋常高等小学校と改称

 大正2.12  夕張第二尋常高等小学校と改称
 大正5.4.8  夕張工業補修学校併置・高等科廃止。夕張第二尋常小学校と改称(高等科の生徒は夕張第一尋常高等小学校へ)
 昭和7.4.14  高等科を再び併置。夕張第二尋常高等小学校と改称
 昭和13.12.23  高等科廃止。夕張第二尋常小学校と改称(高等科の生徒は新設の夕張高等小学校【のちの東山中学校】へ)
 昭和16.4.1  夕張第二国民学校と改称

 昭和22.4.1

 夕張第二小学校と改称
 昭和25.4.1  児童数最高の2,842人・学級数55
 昭和50.3.31  閉校。夕張第二小学校・福住小学校・丁未小学校を統合し、旭小学校を新設

(旭小学校)
 昭和50年4月
開校、夕張第二小学校の校舎を使用。昭和58年閉校(HEYANEKO氏調べ)。

(福住小学校)
 昭和31.10.1  興亜寮跡地に設置。校区は福住三区・五区・六区
 昭和32.12.1  富岡を校区に編入(丁未小学校より)
 昭和50.3  閉校。夕張第二小学校・福住小学校・丁未小学校を統合し、旭小学校を新設

(北陵中学校)
 昭和22.5.1  (丁未中学校として丁未に開校。校区は丁未一区〜三区・錦・小松)
 昭和24.10.30  福住に移転、北陵中学校と改称。校区は上記に加え福住三区および五区〜七区・富岡となる
 昭和37.4.1  生徒数最高の816人・学級数16
 昭和16.4.1  夕張第二国民学校と改称

 昭和22.4.1

 夕張第二小学校と改称
 昭和25.4.1  児童数最高の2,842人・学級数55
 昭和50.4.9  校舎を福住小学校跡に移転
 昭和54.3.31  閉校(ただし現地の碑では3月18日)

 なお「角川」では昭和61年42戸132人。

 


写真3 往時の航空写真(石炭博物館にて)

写真4 宿泊施設跡(旧旭小学校)

写真5 旭小学校裏の広い平地

(写真6 旭小学校閉校式。石炭博物館にて)

写真7 道道沿い風景

写真8 登り口

写真9 何かの跡

写真10 住宅跡

写真11 階段

写真12 家屋

写真13 集落中ほどの道

写真14 遺構

写真15 福住小学校・北陵中学校跡地付近

写真16 北陵中学校跡の碑

(写真17 福住小学校の標柱。炭鉱生活館にて)

写真18 住宅跡。石の柱は煙突

写真19 道(中央手前から奥)と住宅跡(左右)

写真20 ?

写真21 住宅跡

写真22 便所跡?

写真23 公園

 

≪高松(たかまつ)

在:夕張市高松
アクセント:タマツ

 

 社光の隣。右岸に沿う約500mの街区。多数の炭礦住宅のほか、石炭博物館の航空写真によると高松鉱員合宿・小鳩保育園・天竜グランド・夕張会館などがあったよう。
 なお「角川」では昭和61年36戸74人。
 現在は広く石炭の歴史村公園となっており、石炭博物館(もと夕張会館の位置。写真26)や炭鉱生活館・映画のロケセット展示施設(北の零年 希望の杜)・キャンプ場等の施設がある。博物館に設けられた坑道展示は、夕張の石炭大露頭(市指定天然記念物)に直結しており実物の坑道や石炭層を見ることができる。また天竜坑付近にある坑夫像(写真33)は市の文化財で、昭和60年に現在地に移転したもの。

 


写真24 往時の航空写真(石炭博物館にて)

写真25 集落遠景。右下は石炭博物館(福住より撮影)

写真26 石炭博物館(右の竪坑櫓は摸造)

写真27 博物館の展示

写真28 同。坑道展示

写真29 同。「馬引運搬」

写真30 同

写真31 炭鉱生活館にて。炭礦地区のジオラマ

写真32 同。炭住の再現

写真33 進発の像(採炭救国坑夫の像)。後背の穴は天龍坑

写真34 映画展示施設の一部(稲基神社)

写真35 キャンプ場

写真36 住宅跡

写真37 同

写真38 古い電柱

写真39 住宅跡

写真40 登り口

写真41 坑口?

写真42 何かの施設

 

≪富岡(とみおか)

在:夕張市富岡
アクセント:トオカ

 

 福住・錦の間にある右岸の街区。炭礦住宅のほか、石炭博物館の航空写真によると千トンびん・ズリ捨線・人車捲などがあったよう。上部にはズリ山が残る。
 なお「角川」では昭和61年3戸5人。旧長良坑跡の残炭を露天掘りしており、その従業員が住んでいたよう。
 現在斜面の住宅跡には多く植樹(桜が多い)が施され、往時の面影はない。また地内には夕張循環道路開通記念の碑(昭和6年建立?。写真44)があり、最近の地図でも記号で記されている。また道道下の川沿いは石炭の歴史村公園の一部となっており、一時期営業していた遊園地の遊具や施設が一部残る。
 以下は碑の全文。


夕張礦之爲地挾溪負(※1)山境域狹長而多高低交通甚不便常以爲憾焉今春開設道路之議熟也居民奮起拮据戮力從工事者通計三千七百三十七人閲四月而成矣一則自福住經富岡錦岡而到丁未一則自社光到高松長三千六百米突(※1)名曰夕張循環道路平坦如砥可以通自動車其便u實不鮮少矣乃欲永傳此美擧建碑記其梗概(※1)碑〓(※2)文字則社長磯村豊太郎氏所書也

※1 原文では旧字
※2 面の異体字。三画目以降が「回」

 


写真43 往時の航空写真(石炭博物館にて)

写真44 集落遠景(小松より撮影)

写真45 集落内の道

写真46 住宅跡

写真47 住宅跡

写真48 碑

写真49 ズリ山にて

写真50 遊園地の案内図

写真51 SL館(休館中)

 

≪錦(にしき)

在:夕張市錦
異表記:錦岡
アクセント:シキ

 

 富岡・丁未の間にある右岸の街区。炭礦住宅のほか、石炭博物館の航空写真によると錦分配所・夕張第一砿坑口浴場があったよう。
 現在、僅かに炭礦関連の遺構が見られるのみ。

 


写真52 往時の航空写真(石炭博物館にて)

写真53 道と住宅跡?

写真54 住宅跡?

写真55 住宅跡?と電柱

写真56 鉄塔

写真57 坑口?

写真58 池

 

≪小松(こまつ)

在:夕張市小松
アクセント:コマツ

 

 高松の隣。富岡・錦の対岸にある左岸の街区。炭礦住宅のほか、石炭博物館の航空写真によると夕張変電所・夕張第二砿繰込所があったよう。
 現在は石炭の歴史村公園の一部となっており、一時期営業していた遊園地の施設が一部残る。炭住跡は遺構等の確認はできなかったが、支流沿いの低地には対岸の高松も含め、何かの施設がいくらか見られた。また炭住跡背後の高台には放送局の中継所が置かれている(写真65)。

 


写真59 往時の航空写真(石炭博物館にて)

写真60 集落遠景(錦より撮影)

写真61 遊園地の施設跡

写真62 何かの施設

写真63 何かの跡

写真64 坑口?

写真65 住宅跡付近?(道は遊具のコース跡)

写真66 住宅跡付近?にて。碑は「宝くじ桜植栽地」

写真67 中継所

写真68 高みから礦山地区を望む

 

≪丁未(ていみ)

在:夕張市丁未
アクセント:イミ

 

 小松・錦の隣。炭礦集落最奥部の街区。かつては丁未小学校や、福住の北陵中学校の前身である丁未中学校があった(昭和22年開校、同24年移転)。神社に丁未神社があったが、昭和44年道路開鑿のため廃止。多数の炭礦住宅のほか、石炭博物館の航空写真によると丁未二区保育園があったよう。
 現在は「夕張めろん城」やメロン通年栽培のハウスがある程度。地内には「秋桜(こすもす)塚」があるが、これは炭礦での殉職者を悼んだもの。共に祀られている多数の石仏は、西国三十三箇所の霊場を摸したもの。昭和24年に錦沢公園に作られたものを同57年東山聖苑に移転、さらに平成2年に現在地に移転している。炭住跡の一部は果樹園とされているが、何かが栽培されている様子はない。
 なおめろん城の付近にはかつて小学校があり、道脇には「旧丁未小学校正面階段」の標柱も立てられている。またメロン栽培のハウス付近はかつての「丁未会館」の場所。
 以下は学校の沿革。

 明治4

 丁未尋常小学校開校。校区は丁未・錦・富岡

 昭和5.8.22  高等科併置。丁未尋常高等小学校と改称
 昭和16.4.1  丁未国民学校と改称

 昭和22.4.1

 丁未小学校と改称
 昭和32.4.1  校区変更。富岡を福住小学校へ
 昭和50.3.31  閉校。夕張第二小学校・福住小学校・丁未小学校を統合し、旭小学校が新設される

 


写真69 夕張めろん城

写真70 同駐車場(学校跡?)

写真71 学校前の階段。上に標柱

写真72 学校跡の碑

写真73 秋桜塚

写真74 炭住跡

写真75 同

写真76 同

写真77 丁未風致公園

 

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