◆駒別(こまべつ)
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「虻田」(昭和45.3)を使用したものである
所在:壮瞥町駒別 地形図:仲洞爺/虻田
意表記:レルコマベツ(字旧称)・礼留駒別(旧称漢字表記)
形態:高原に家屋が散在する 標高:約400m
訪問:2014年5月
町の北部、長流(おさる)川支流のレルコマベツ川およびその支流沿いにある。
町史によると、最初の入植者は明治41年5月の三宮氏。明治44年には早瀬農場の深谷氏と小作人数戸が入植し、集落を形成した。入植者は農業の傍ら、炭焼きや冬期の伐採・材の運搬といった副業を行っていた。一時木材の生産が盛んであったが、不便な立地や農業に不適な気候のため上久保内第二集落と共に次第に離農者が増加。昭和46年最後まで農業を営んでいた3戸が離村し無住となった。大正5年57戸285人(※1)、昭和7年25戸150人、同10年24戸148人、同33年9戸55人(※2)。
※1 判明しているものは、長浜(教員)・田村(駅逓取扱人)・深谷(早瀬農場監督)・梅原・八重樫・三宮(最初の入植者)・三宮・村上・上島・宗像・坂井・梶浦・栗原・佐々木・牧・成田・野村・大福・国吉・堀本・大場・地徳・関根★・関★・東条・新藤・仲・竹中・柴田・佐藤★の各氏(★は最後まで居住した者)
※2 北御門(校長)・大福・関根★・柴田・梅村・東条・佐藤★・関★の各氏(★は最後まで居住した者)
以下は学校の沿革と児童数の推移(赤字は戦後の最多)。
大正5.4.24 |
久保内(くぼない)尋常小学校付属レルコマベツ(上礼留駒別)特別教授場開設 |
大正14.11 |
校舎新築移転 |
昭和8.4.1 |
蟠渓(ばんけい)尋常小学校付属宇遠別(うえんべつ)特別教授場を併合(※3)。上久保内第二を校区に編入 |
昭和9.4.1 |
独立。駒別尋常小学校となる |
昭和16.4.1 |
駒別国民学校となる |
昭和22.4.1 |
駒別小学校となる |
昭和41.3.31 |
廃校 |
年度 |
大正5 |
大正11頃 |
昭和22 |
昭和24 |
昭和26 |
昭和28 |
昭和30 |
昭和32 |
昭和33 |
昭和34 |
昭和36 |
昭和38 |
昭和40 |
学級数 |
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1 |
1 |
1 |
1 |
1 |
1 |
1 |
2 |
2 |
2 |
2 |
児童数 |
23 |
49 |
25 |
28 |
24 |
21 |
25 |
35 |
38 |
37 |
31 |
22 |
18 |
※3 同教授場の廃止は昭和9年3月31日
また神社に八幡神社があったが、昭和41年9月町内久保内の神社に合祀された。
なお「角川」によると、明治30年代には木材搬出のために開かれたとのこと。昭和38年電化し、過疎化は同40年頃から。また字駒別は昭和6年からの行政字で、もとは壮瞥村の一部。
レルコマベツ川沿いの道を進み、字駒別の領域に入るのは国道の分岐より約1.2kmほど。さらに進み傾斜が緩くなった辺りでも既に家屋はない。道路沿いにはある程度の牧草地があるものの、大部分は山林。学校跡はレルコマベツ川沿いにあり、「学び舎の跡」の碑(写真5)が立つ。
かつての住民の関係者によると、畑では豆類や亜麻を栽培していたという。
なお手持ちの旧版地形図「徳舜瞥山」(昭和44年3月)では上久保内第二集落も「駒別」の集落表記となっているが、これは誤り。
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