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◆浅野(あさの)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「恵比島」(昭和45.3)を使用したものである

在:沼田町浅野
地形図:ホロピリ湖/恵比島
形態:川沿いに家屋や施設が多数集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:110m前後(水面は約130m)
訪問:2012年6

 

 町の西部北寄り、幌新太刀別(ほろしんたちべつ)川沿いにある。現在は沼田ダムの人造湖(ホロピリ湖)に水没。もとは純農村であったが、のち大規模な炭礦集落となった。
 以下は町史より。

(集落)
明治37年、のちの幌新第1部において幌新太刀別川沿いの開拓が始まる。当時幌新より奥は御料地であったが、明治39、40年頃から解放・貸付が始まり入植者が増加したため、地区を三部に分割した。うち第三部は、当集落の一部
幌新第1、第2より遅れて大正3年頃から菅原・鍛治・前田・吉光・坂下・斎藤・野田・高橋・桜井・笠井各氏の入植が始まり、同7年頃には50戸ほどになった。その頃の農地は、後の大原町・川添町・台町・浅野市街地の一帯
農産物は大豆・小豆・麦類であったが、収穫はきわめて少なく、また1戸当たりの農地も十分でなく、大正末には9戸に減少
昭和5年浅野炭礦の開坑により鉄道の敷設・道路の改良が進み、浅野地区に編入(浅野第1=学校付近)。農業経営も安定
する
炭礦が開業すると、「第二の夕張ができる」と話題になり、昭和4年秋頃から家が建ち始める
昭和5年7月、留萌鉄道が開通し浅野炭山駅(のち新雨竜駅)が開業。建築資材や物資が鉄道で輸送され、急速に建築が進む。昭和6年頃には大きな市街地に発展。古河鉱業時代には、「ニューテアトル」や飲食店・パチンコ屋・商店・役場の出張所・浅野郵便局・派出所・営林署事務局など事業所が密集していた

(寺社)
浅野大祇神社―浅野雨竜炭礦の開坑とともに建立。昭和44年廃止
浄光寺(浄土真宗)―昭和5年4月、幌新説教所として開設(同14年12月寺号認可)。同46、7年頃転出
妙勝寺(日蓮宗)―昭和6年、住職が布教開始(同21年9月寺号認可)。同45、6年転出
瑞巌寺(曹洞宗)―昭和6年10月、道光布教所として開設(同22年3月寺号認可)。同26年単立寺院認可を受け大本山瑞巌寺となる。閉山後は沼田地区へ移転したが、住職の死去により同52年閉鎖

(炭礦)
昭和5年3月、浅野雨竜炭鉱株式会社が東本坑を開坑。のち古河鉱業株式会社に鉱業権譲渡(昭和27)、同社の雨竜鉱業所となる。その後雨竜炭鉱株式会社が引き継ぐ(昭和37.12)。同43年11月閉山
人口は開坑当時100人足らずであったが、全盛期には1,500余人。閉山時には227人

(学校沿革)
 大正4  宝竜特別教授所開設
 大正6.5.1  幌新尋常小学校附属御料特別教授所と改称
 大正9.7.24  独立。奥御料尋常小学校となる
 大正9.10.25  校舎移転(廃校時の位置)
 昭和5.4.1  昭和に分教所開設

 昭和8

 高等科併置
 昭和10.5.14  浅野尋常高等小学校と改称
 昭和16  浅野国民学校と改称
 昭和22.4  浅野小学校と改称
 昭和45.3  廃校

 昭和22.5  浅野中学校開校(小学校に併置)
 昭和24.8  移転独立
 昭和44.7  独立校舎閉鎖、小学校に併置

 昭和45.3

 廃校

  大正4 大正10 大正15 昭和4 昭和5 昭和6 昭和10 昭和15 昭和20 昭和25 昭和30 昭和33 昭和35 昭和40 昭和44

児童数

30 30 13 9 87 307 501 553 251 743 920 1,053 893 454 161
生徒数                   330 369   341 208 86(5月)
10(10月)
※ 赤字は最多

 集落はほとんどが水没しているが、炭礦施設の一部が湖畔に残存。また展望台にはかつての浅野・昭和の地図が写真付きで描かれており、往時の様子を探るうえで参考になる(写真6-9)。

 


写真1 集落付近(涼風(すずかぜ)橋より)

写真2 遺構

写真3 遺構

写真4 遺構

写真5 遺構

写真6 往時の地図(展望台にて)

写真7 集落風景(同)

写真8 炭礦施設(同)

写真9 集落(同)

 

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