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◆福山(ふくやま)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「日高
」(昭和37.1)を使用したものである

在:むかわ町穂別福山
地形図:胆振福山/日高 ニニウ/日高
異表記:オロロップ(旧称)
形態:川沿いに家屋が散在する
標高:約170m(中心部)
訪問:2014年5

 

 市の北東部、鵡(む)川沿いにある。
 町史によると、まず明治36年頃クロムを産出するモトツ鉱山(春日鉱山)が開発され、これに伴う労働者が入地。また明治42年には王子製紙株式会社が国有林の払い下げを受け造材を開始。オロロップ橋の近くに事務所を置き、飯場には常時100名ほどの労働者が賑わっていたという。本格的な集落の形成は、大正時代の団体入植から。大正6年12月、殖民地として解放され、昭和7年春、当時の大字オロロップに大角氏を団長とする岩手団体が入植。ほか和歌山・山形・大阪・滋賀の各団体が相次いで入植した。「角川」によると、鎮守は福山神社。
 
以下は戸口の推移。

  昭和35 昭和39 昭和50 昭和61 昭和63
戸数 63 41 33 61 6
人口 351 195 104 74 18
※ 字福山に属する八幡(後述)とは区別して記載されているため、福山地区の実質的な数値

 また以下は当地にあった学校の沿革と児童数・生徒数の推移。

(小学校)
 大正10.5.20  奥穂別尋常小学校所属居路夫(おろろっぷ)特別教授場開設
 大正13.1.1  上穂別尋常小学校所属居路夫特別教授場となる(奥穂別尋常小学校が改称)
 昭和7.5.21  独立。居路夫尋常小学校となる
 昭和16.4.1  福山国民学校となる
 昭和18.4.1  高等科併置

 昭和22.4

 福山小学校となる
 昭和56.3  廃校

(中学校)
 昭和22.5.1  安住中学校福山分校開校。校舎は曹洞宗旧布教場を借用

 昭和28.7.1

 独立。福山中学校となる。小学校に併置
 昭和36.11.24  校舎完成
 昭和57.3  廃校

年度 昭和14 昭和17 昭和23 昭和40 昭和45 昭和50 昭和55 昭和56
学級数(小/中) 2/- 2/- 2/1 2/2 2/1 1/2 1/1 -/1
児童数 82 72 86 36 25 3 2
生徒数 35 20 15 8 1 3


 なお南部の八幡地区については断片的な情報しか確認できないが、大正期には造材が行われ、昭和10〜20年代にはクロムを産出する八幡鉱山が開かれていたよう。昭和17年には最盛期を迎え(角川)、昭和21年の時点で坑内19人、坑外28人の労働者が在籍していた。昭和35年26戸119人(次の統計である昭和39年は空欄)。

 現地福山地区中心地には在住の家屋が1軒のほか、畑のある管理家屋が1軒。他にも数戸の家屋が残されている。パーキングエリア脇の空地の隅には、開基50周年の記念碑(写真4)が見られた。最近まで学校跡には門柱や校舎が残されていたようだが、これらも既に撤去されている。中心部より北側は、道道が通行止めであったため未訪問。八幡に至る途中(写真8〜)ではいくらかの宅地が確認できた。
 八幡地区では道道沿いの遺構はほとんど見られず、地名の表記がある平坦地も荒寥としている(写真12・13)。ここから支流に沿って林道?が延びているが、この支流で1軒の廃屋が見られた(写真14)。

 


写真1 集落中心地(以下中心部)

写真2 商店跡?

写真3 家屋

写真4 記念碑

写真5 パーキングエリアより北側を望む。木立の奥は学校跡

写真6 何かの跡?

写真7 神社

写真8 屋敷跡にて(以下中心部−八幡間)

写真9 神社の記号付近

写真10 廃屋

写真11 「八幡の沢」の八幡橋(以下八幡)

写真12 道道沿いの風景

写真13 「がけ」の記号がある緩い斜面

写真14 廃屋

写真15 写真14にて

 

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