◆稲倉石(いなくらいし)鉱山
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「茅沼」(昭和36.6)を使用したものである
所在:古平町沢江町(さわえちょう) 地形図:稲倉石/茅沼 両古美山/古平
形態:川沿いに施設や家屋が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約120〜220m
訪問:2014年5月
大字沢江町の南部、古平川支流の稲倉石川沿いにある。
町史より、主な流れは以下のとおり。
明治18.7 |
山師の大石氏・猪股氏・和田氏が金の鉱石を発見。発見者の名を取り「大股鉱山」(※1)とした。のち資金不足により試掘は中止 |
明治22 |
北海道鉱山株式会社により本格的な採掘を開始 |
明治31 |
休山。同33年放棄 |
明治36(※2) |
田中鉱業株式会社により操業再開 |
明治42.4 |
然別鉱山の鉱主・小田氏の所有となる |
明治44 |
休山 |
大正6 |
函館の国屋氏がマンガンの採取・販売を開始。 |
大正7.1 |
久原鉱業株式会社(※3)の所有となる |
大正9 |
休山 |
昭和4 |
11月株式会社鉄興社の所有となり、12月操業開始。マンガンを採掘。 |
昭和9.2 |
鉄興社は鉱山の経営を分離し、稲倉石鉱山株式会社を設立。稲倉石鉱業所を移管 |
昭和9.10 |
稲倉石鉱山株式会社は鉄興社に吸収合併される |
昭和45 |
北進鉱業株式会社の所有となり、稲倉石鉱山は同社が経営する隣接した大江鉱山と合併。同鉱山の支所となる(※4) |
昭和59.9 |
閉山 |
※1 改称についての記載はない。北海道鉱山会社に経営が移った際に変更か
※2 3巻より。2巻では明治35年とある
※3 3巻より。2巻では「久原鉱業系の東亜通商株式会社」とある
※4 「稲倉石鉱山は〜」以降のくだりは、仁木町史の大江鉱山の項より
以下、それぞれの操業時期の状況について概説する。
・明治期
北海道鉱山時代には金・銀・銅をの鉱山として盛況であったといわれるが、日清戦争後の不況により経営が悪化し休山。田中鉱業時代には主に金を産出し明治37年頃には再び盛んになるが、日露戦争後は外国からの金の輸入が増え
たため鉱山に見切りをつけた。
・大正期
第一次世界大戦が始まり、マンガンの軍需が急増。しかしこれが終わると需要は減少した。
・昭和期(鉄興社時代)
鉄興社は当時フェロアロイという合金を製造していたが、事業拡大のためその原料であるマンガンを必要としていた。しかしこれが外国から安価で輸入されるようになったため、需要は激減。昭和6年2月には操業を停止し職員は一時下山する。しかし間もなく二酸化マンガンの原料として用いられることになったため、同年9月には操業を再開した。昭和10年代半ばにはマンガンの軍需が増え、設備や施設を拡充。昭和19年には道内のマンガンの生産高の約半分を占め第1位を記録。敗戦直後は一時規模縮小するも、同27年までその順位を維持した。昭和38年をピークに経営は悪化し続け閉山をも検討していたが、北進鉱業に売却し、大江鉱山と合併することで決着を見せる。のち閉山まで細々と粗鉱を産出した。
以下は当地にあった学校の沿革。
(小学校)
昭和10.4 |
稲倉石尋常小学校開校 |
昭和11.5 |
校舎移転 |
昭和16.4.1 |
稲倉石国民学校となる |
昭和17.4.9 |
高等科併置 |
昭和18.9.8 |
私設の稲倉石青年学校を併置 |
昭和22 |
稲倉石小学校となる |
昭和28.7 |
校舎移転 |
昭和52.3 |
閉校 |
なお稲倉石中学校は、昭和22年5月1日開校(小学校に併置)、同46年3月閉校。
以下は児童数・生徒数の推移(赤字は最多)。
年度 |
昭和10 |
昭和15 |
昭和20 |
昭和22 |
昭和25 |
昭和30 |
昭和34 |
昭和35 |
昭和36 |
昭和40 |
昭和45 |
昭和47 |
昭和49 |
昭和51 |
小学校 |
13 |
99 |
106 |
56 |
85 |
127 |
198 |
197 |
183 |
107 |
62 |
30 |
15 |
7 |
中学校 |
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84 |
119 |
192 |
259 |
265 |
270 |
183 |
91 |
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施設等の動きは以下のとおり
昭和9.9 |
鉱石輸送の索道が運転開始(元山‐堤の沢間) |
昭和12.12 |
診療所開設 |
昭和15.10 |
索道延長(堤の沢‐古平間)
巡査出張所設置 |
昭和16.8 |
稲倉石郵便局開設 |
昭和25.6.30 |
学校に電話架設 |
昭和32.6 |
稲倉石‐古平間に定期バス運行開始 |
昭和39.8 |
テレビの共同アンテナ設置 |
昭和39.12 |
鉱石輸送の索道廃止。トラックに転換 |
昭和40.6 |
稲倉石保育園開設 |
現在は一部が砕石業者の作業地として利用されており、学校跡地や林道沿いになどに山積みとなった砂利が見られる。随所でいくらかの遺構が確認でき、往時が偲ばれる。
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