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◆富士見(ふじみ)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「北見富士」(昭和48.3)および同地形図「常元」(昭和46.6)を使用したものである

所在:北見市留辺蘂町富士見(るべしべちょう―)
地形図:富士見/大和 曲り沢峠/常元
アクセント:フジミ
形態:川沿いに家屋が散在する
標高:約510m(中心部)
訪問:2013年6月

 

 町の西部、無加(むか)川沿いにある
 町史によると、集落の草分けは大正2年に入植した久保内氏。大正11年には上ムカ駅逓が設けられ、佐野氏が取扱人として入地。大正12年佐々木氏、同14年野尻氏・夏伐氏・矢橋氏、続いて鹿野氏、昭和2年山形氏が入植、開墾に従事した。昭和3年・4年には「補助移民」15戸が入植し、同地の開墾が促進されることとなる。昭和3年小山田・苫米地・三浦・竹ヶ原・奥山・篠原・盛岡・苫米地・前田・高橋各氏、同4年木林・菊地・菊地・竹田・恩田各氏。これら補助移民のほかに昭和3年木曾氏、同4年藤沢氏が入植している。
 以下は小学校の沿革。

 昭和4.5.1  上武華尋常小学校所属富士見特別教授場開設
 昭和6.5.26  富士見尋常小学校となる
 昭和16  富士見国民学校と改称
 昭和21.4  富士見小学校と改称

 昭和39.3

 廃校

 また店舗を営む方(結婚まで富士見に在住)の話によると、分かるもので25軒くらいがあったという。主に麦類やジャガイモを栽培。ほとんどが北見に転出した。現在はドライブイン・犬の繁殖業者・氷菓工場などがあり数組が行き来しているが、すべてが外部の人物によるものだという。
 なお字富士見は昭和15年からの行政字。もと留辺蘂町の一部。古くは武華原野、大正期には現在の字厚和とともに上武華と称された地域。地名は北見富士がよく見えることから。昭和19年27戸159人(角川)。
 集落には東部に一軒の廃屋が残る以外、人家の類ははない。農地もほとんど林や荒れ地などになっている。先述の施設のほかにも廃業したものがいくらか残っている程度。上武華駅逓跡と小学校跡には町により碑が建てられており(写真3・4)、かつての存在を窺わせる。なお廃業した商業施設(物産店兼食堂のキツネ園。写真6)の裏には稲荷神社(写真7)があるが、これは集落由来のものではなく企業が勧請したものであるとのこと(キツネ=稲荷)。また最近の地図で記載されている神社については、思い当たるものがないという。

 


写真1 広い平坦地と廃屋

写真2 屋敷跡(奥)?と「青井君の碑」(右手前)

写真3 駅逓跡の碑

写真4 学校跡の碑

写真5 校舎跡

写真6 商業施設跡

写真7 稲荷神社

 

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