戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆分岐(ぶんき)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「北見富士」(昭和48.3)を使用したものである

在:遠軽町丸瀬布地内(字なし?)
地形図:分岐/大和
形態:川の分岐に家屋や施設が集まる
離村の背景:
事業の合理化
標高:約450m
訪問:2013年6月

 

 町の南部、武利(むりい)川・七ノ沢の合流部以南にある。地図サイトを見る限り、現在いずれの行政字にも属していないよう。
 以下は町史より。

太平洋戦争に伴う木材の需要の増加でできた集落。従来の農閑期の冬山造材だけでは追いつかず、季節を問わず伐採を行うために常時労務者を確保する必要が生じた。集落形成により定住化を図ったもの
昭和16年(あるいは17年か)分岐・七ノ沢に、昭和19年下本流・本流に事業所が設けられ、それぞれ季節出稼ぎのための飯場のほか、世帯持ちの作業員の宿舎(「こごや」と呼ぶ)が設けられた。分岐は本建築であったが他は掘立のバラック。子供は林用鉄道で分岐の学校へ通った。電気も分岐が水力、他は発動機
昭和22年、行政的に上武利から分離
昭和23年12月までに七ノ沢のこごやを廃止。同27年から下本流、次いで本流のこごやを分岐に集中させ、同29年までに3集落は分岐に統合
昭和28年本流事務所が十四ノ沢分岐に移されると、暫定的にこごやが設けられ武藤・鎌田・古木・外崎・千島・岩瀬各家が居住
林鉄を廃しトラックによる輸送に転換したため輸送の合理化が図られ、また市街地からのバス通勤が可能になり、次第に山元に宿舎を設けておく必要がなくなる。
昭和31年から翌年10月にかけて、分岐および十四ノ沢分岐の住民は神居滝などへの移転を完了。事務所も濁川へ移転。12月31日、学校の廃校日とともに集落は歴史を閉じる
市史「分岐見取図」には53世帯のほか学校・事務所・機関庫・発電所が見られる(昭和30年10月)
同「七の沢仔小屋見取図」には13世帯のほか事務所・飯場・浴場が見られる
同「下本流仔小屋見取図」には事務所のほか22世帯

 以下は学校の沿革。開校以前、夏は林用鉄道で武利へ通えたが、冬は輸送を止めるため通学することができず、元の家に置いたり祖父母や親戚の家に置いたりしていた。

(分岐小学校)
 昭和21.4.1  分岐国民学校設置(ただし校舎がないため引き続き武利へ通学)
 昭和22  7月校舎落成。8月開校式
 昭和32  閉校。武利小学校に統合

(分岐中学校)
 昭和24.4.1  丸瀬布中学校分岐分校開校。分岐小学校に併置(ただし校舎がないため武利へ通学。12月6日完成)
 昭和26.6.1  独立。分岐中学校となる(分岐小学校に併置)
 昭和32  閉校。武利中学校に統合

児童数は、昭和21年33人、同22年37人、23年40人、24年50人、28年54人。生徒数は、昭和28年22人。

 2013年、分岐本集落のみ訪問(以遠は通行止めのため訪問できず)。学校跡には碑(1982年、町教育委員会・町郷土史研究会による設置)が立っているが、遺構等はほとんど残っていない。また「こごや」等の跡地も痕跡に乏しく、人為的に石が集められた場所やいくらかの穴、壜や瀬戸物等が散見される程度。

 


写真1 分岐林道

写真2 学校跡の碑

写真3 道路沿いの開けた平地

写真4 ?

写真5 建物跡の穴

写真6 素焼きの何か

写真7 壜など

写真8 並べられた石(手前から中央)

写真9 建物跡

写真10 何かの穴

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ