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◆金浦(かなうら)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「遠別」(昭和22.2)を使用したものである

在:遠別町金浦
地形図:遠別/遠別
異表記:トマタウシュナイ(旧称)・苫年内(とまとしない)(旧称)
形態:河口から川沿いにかけて家屋が散在する
離村の背景:(1世帯現住)
標高:数m〜20m弱
訪問:2012年6

 

 町の西部、トマタウシュナイ川沿いにある
 以下は町史の記述。

もと御料地であったものが明治34年解除され、明治35年より開墾が始まる。開墾の草分けは栗崎氏。明治時代12戸、大正時代9戸が入植した
漁業では、明治38年ニシン漁開始。同40年には海難でこの地に居住した3名も加わる。大正期には4戸が加わり、秋田県人が多数を占めていたため一時期は「秋田漁場」と呼ばれたこともあった。昭和29年からの不漁により、漁家は減少
昭和14年、字名改正で「苫年内」から「金浦」となる。由来は「農又ハ一部海浜部落なる故魚ノトレル浜ノ意ヲ含メ名付ケル」。大正7年「北華(ほっか)」と称したこともあったが、これはすぐに消滅
現在は他集落からの通いで、荒廃しかけた耕地を再興。豆類・甜菜・ジャガイモなどを栽培

(小学校沿革)
 明治40.4.15  トマタウシュナイ特別教授簡易場設置
 大正6.9  トマタウシュナイ特別教授場と改称
 昭和2.4.1

 苫年内尋常小学校と改称

 昭和16.4.1  金浦国民学校と改称
 昭和22.4.1  金浦小学校と改称
 昭和37.11  校地移転

 昭和53.3.31

 廃校

(児童数の推移。抜萃)
昭和30 昭和35 昭和40 昭和41 昭和42 昭和43 昭和44 昭和45 昭和46 昭和47 昭和48 昭和49 昭和50 昭和51 昭和52
51 63 38 29 20 15 16 14 17 15 11 9 7 6 3

 「角川」によると、昭和26年54戸373人、昭和61年10戸20人。神社は金浦神社。

 現在も川沿いの農地では通い耕作が行われており、訪問時も農作業をする方々を多く見かけた。国道沿いには広く牧草地が広がるほか、畑や「金浦原生花園」(写真5)がある。原生花園では時期に応じ、エゾカンゾウ・イソツツジ・ヒオウギアヤメといった花々の群生を楽しめる。かつては集落に天塩金浦駅があったが、位置は未確認。学校跡は金浦バス停付近にあり、現在も門柱がその名残を見せる(写真8)。
 集落で会った方の話によると、古くからの家が1軒現住のほか、5組が通い耕作で訪れているという(うち元々の住民は3組)。かつての農産物はほとんどが米(小作農)であったが、現在は小麦・ビート・ジャガイモ・ソバ・豆類などの畑作物。教員住宅は集会所として転用された(現在はない)。

 


写真1 農地

写真2 家屋

写真3 国道沿いの牧草地

写真4 国道沿いの畑

写真5 原生花園

写真6 原生花園にて

写真7 学校跡

写真8 学校門柱

 

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