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◆上俵真布(かみたわらまっぷ)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「志比内」(昭和36.10)を使用したものである

在:美瑛町俵真布
地形図:俵真布/志比内
形態:川沿いに家屋が散らばる
標高:約460〜530m
訪問:2013年6

 

 字俵真布の東部、辺別(べべつ)川およびその支流の左股沢(ひだりまたざわ)川に挟まれた場所にある。
 以下は町史・『美瑛町百年史』・『俵真布八十年史』の記述をまとめたもの。

字俵真布は、アイヌ語で7線から17線までを「パンケシュームケタロマップ」(下の・霧深き沢の奥)、18線から28線までを「ペンケシュームケタロマップ」(上の・―)と呼ばれていた。もと御料地で、俵真布地区への貸付が許可されたのが大正2年3月。徳島と仙台の団体150名の入植により開拓された。同年8月、地域名を「俵真布」と改称。「パンケ―」「ペンケ―」はそれぞれ「下」「上」を冠した。初期の入植者が「マップ」に「真布」の字を仮借し、盛んな収穫を願って「俵」を冠したという。
上俵真布では、大正2年の開拓に始まり同4、5年頃には約80世帯が生活。大正5年には松本氏が大規模な澱粉工場を設置、同7年頃には15工場があったといわれ、下俵真布よりも発展の勢いを見せていた。しかし数年で戸数は激減、終戦当時には4戸のみとなっていた。昭和20年戦後の緊急開拓で樺太からの引揚者が団体で入植。昭和38年には16戸。
かつては十八線川の水力を利用し、様々な工場が建てられた。大正初期の薄荷搾油工場、大正中期の亜麻製品工場、大正末期の澱粉工場、昭和初期の木工所、昭和25年のツキ柾工場など。
昭和28年俵真布20線(上俵真布地内〔=18線以東〕)に俵真布ダム構想が提案されたが、経済効果が低いとして計画は同32年に中止となっている。
神社は21線に上俵真布神社があった。昭和12年駅逓所設置、同19年廃止。

上俵真布の入植者は以下のとおり。
大正2年〜…稲辺・及川・松浦・西尾・小山・笠井・赤間・千葉・木村・松崎・笠井・佐々木・木宮・松浦・千葉・中岡・藤木・及川・富永・本田・松崎・門・藤田・大田・岩崎・井上・藤安・畠・戸田・森・松本・庭島・庄野・亀井・及川・高橋・原田・吉岡・唐橋・佐藤・守・柴田・若井・天山・小柏・高橋・西亦・武内・山口・松川・佐々木・稲辺・稲辺・細川・千葉・佐藤・柴田・大塚・
大湯・及川・川口・住友・佐藤・馬場・吉兼・竹ノ内・工藤・佐藤・鎌田・高嶋・曽我
昭和4年…菊地・鈴木・高橋・伊藤・菊地・川辺・林・山本
昭和5年…及川・笹原・山川・小口・藤井・大場
昭和20年…寺島・小山内・小山内・吉村・茂木・佐々木・森脇・米田・中村・中越・藤島・尾崎・武田・田中・近藤・金井・住友・小西・千葉・河野・鳥居・松田・坂田・高桑
集落跡地は町の斡旋により美瑛町森林組合が引き受け。農家林が創設され植林がなされるも、経過は良好とはいえなかった。その後北海道各地の林野の価値が高騰し、土地斡旋業者が買収。さらに時を経て美瑛東部農地開発事業により農地として生まれ変わり、ジャガイモ・甜菜・小麦・大根等が栽培され大きな成果を挙げている。
以下は小学校の沿革と児童数の推移。

 大正3.12.7  明徳尋常小学校所属俵真布第二教授所が俵真布24線に開設
 昭和19.3  入植者減少のため廃止
 昭和23.11  俵真布小学校上俵真布分教場が俵真布20線に開設。旧俵真布駅逓所を校舎とする
 昭和27.4.1  上俵真布小学校として独立

 昭和39.3.31

 廃校

  昭和25 昭和27 昭和29 昭和33 昭和36 昭和37 昭和38
児童数 30 25 17 22 15 14 3
学級数 1 1 1 1 1 1 1

 


写真1 何かの遺構

写真2 溝

写真3 学校付近?

写真4 倒潰家屋

写真5 農地の畦?

写真6 同?

写真7 屋敷跡?

写真8 農地

 

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