愛することを 2

 居候を抱える時、問題なのは家族の状態だ。僕はいつもそこに気を使う。どうしてもほってはおけないから連れてくるわけだが、時には家族の都合で、受け入れられないかも・・・帰ってもらった方がいいかもと悩むこともあるのだ。
 また、お金の問題も難しい問題だ。「借金返済や生活費に困っている」と言う人を、どこまで信用し、どこまで受け入れ、どこまで援助できるのか悩まされるのだ。
 皆さんなら、初めて会う人の話をどこまで疑わずに聞くことができますか?
 時には、だまされることもあるのだから・・・。
 しかし、その人の話を信じないと何事も始まらない。
 愛することは犠牲を払ってもその人のことを信じることではないか。僕はそう思う。

 ある方との出会いの中で、愛を試されたことがある。その方は数万円の借金のために命を捨てようとしていた。借りた先がやばいところだったからだ。僕は借金を返すためにお金を貸すことにして、お金を返せるようになるまで僕と一緒に生活をしようと提案した。彼には帰るところがないわけではなかったが、生活費が一銭もなかったからだ。借金をしたところに連絡を取り、返す約束と赦す約束を取り付け、僕と彼との生活が始まった。
 しかし、次の日、彼は僕にこう言った。
「帰りたい。お金だけ貸してくれないか。」
 僕は悩んだ末に出来ないと答えた。理由は、彼が通帳やカードを渡してお金を借り歩いて生きた事実が今の問題を引き起こしていたからだった。また同じ方法でお金を借りようとする彼にお金を貸すことは良くないと思ったのだ。
 帰る決意が固い彼の気持ちを変えることが出来ず、彼はその日のうちに帰ることになった。僕は電車賃だけ出した。
 しかし、これでうまくいくとは到底思えない。また彼は死を選ぶかもしれない。結局僕は、妻と相談して、彼の借金先にもう一度連絡をとり、その週一杯、彼からの連絡を待ってくださいと頼み、また連絡がなければ借金の肩代わりをすることを決めた。そうしなければ、彼には返す当てなどなかったのだから、結局彼はつぶれてしまうことが目に見えていたのだ。

 それが何の意味がある。そんなことをしても彼のためにならないんじゃないか。甘いよ。彼は彼の責任を彼自身が取らなければならないんじゃないか。
 
 たぶん、そう思う人はたくさんいるだろう。僕も普通に考えればそう思う。でも、僕は神様を知ってるんだ。神様は僕らを愛するがゆえに、僕らが責任を取らなければならなかった罪を、身代わりに背負い、赦して下さった。僕らにその責任の重さを負わせなかったんだ。そこに愛があると、僕は神様の愛を感じずにはいられない。僕はそんな神様を知ってるんだ。だから、僕もその愛に倣いたいんだ。僕は神様を知っている者としてただそうしたいだけなんだ。


 結局、彼は今、別の教会でお世話になっている。借金の肩代わりもその教会の牧師先生が担ってくださっている。これも神様の恵み、彼に神様の愛が分かりますように。