愛することを

 僕は彼の話にイライラさせられていた。はったりを繰り返す彼に「だから何なんだ」と突っかかりたい気持ちだった。
「おれは元やくざで、しょっちゅう悪いことをしてきた。今でも知り合いがおる」
「おれは神なんか信じない。誰の世話にもならない。今までもなったことがない。」
「あそこのお寺では30.000円もらった。そのかわり草引きをしてきたんや。だからこのお金は働き賃や。」
 妻が出した夕食を食べながらそう話す彼に、嫌気がさしていた。
 聞くところによると、彼は放浪生活を繰り返し、キリスト教会をはじめお寺、天理教の教会など様々なところを渡り歩き、毎日の生活をしのいできていた。そして今回うちの教会だったらしい。
 そんな彼が、たった一言、本音を漏らした。
「安住の地がほしい。できることなら・・・。定住して暮らしたい。」
「一緒に仕事を探し、自立できるようにがんばろう!」
と僕が言ったからだったのか・・・。
 この本音と共に、彼はもう一言彼はもう一言、
「実は今日、神に祈ったんだ。安住の地をくれるように祈ったんだ。」
 と言ったのだ。
 僕がもし豊かな愛を持っていたなら、
「そうか一緒にがんばろう!」
 と、言っただろう。しかし、僕は、
「神を信じないって言っていたじゃないか。どの神に祈ったんだ?」
 と、彼の言ったことを受け入れられなかった。もしかすると、彼は心を開きかけていたのかもしれない。しかし、僕の愛のない一言で、彼は怒った。

「なんだ若造!お前に俺の気持ちが分かるか!!」
 そして、僕の前から去って行ってしまった。
「本当に行ってしまうんですか?」
 僕の苦し紛れの一言を背に、彼は
「お前と話すことなどもうない!」
 と言い残し、去ってしまったのだ。それでも僕の心の中には、彼に対する信頼できないなあと言う思いがあった。しかし、15分ほど呆然とさせられてふと気付かされた。
 イエス様は、隣人を愛することを教えられた。それは敵をも愛することだと教えられたのではなかったか。僕はたとえ彼がうそをついていても、まずは信頼し受け入れることが必要だったのではなかったか。彼を不愉快にさせたのは僕の間違いだったかもしれない。
 そこで、僕は彼を探して謝ることにした。そうしなければ、ならないと思った。
 自分の愛のなさを改めて気付かされた出来事だった。