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◆三浦(みうら)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「加子母」(昭和22.5)を使用したものである

所在:王滝村(大字なし)
地形図:滝越/加子母
異読み:みうれ・みむれ
形態:川の合流部に家屋が集まる
標高:約1.280m?(水面は約1,290m)
訪問:2025年11月

 

 村の西部、王滝川とその支流の水無沢との合流部付近にある。現在は三浦ダムの湛水に伴い水没。

 村誌によると、700年以上前に「三浦太夫」なる人物が鞍掛(くらかけ)峠を越えて当地に流れ着き、一族が居住したとのこと。三浦太夫については、滝口の侍(御所を警護する武士)であったとも、源義平の従者とも、朝比奈三郎義秀であったとも伝わっている。
 下流の滝越(たきごし)地区は、三浦太夫の子孫の八良兼重が、永住するのに少しでも暖かい地を求めて開拓した地であると伝えられている。滝越の住民はすべて三浦姓を名乗っている。
 また水没前の三浦平には、三浦太夫の屋敷跡といわれる場所や、三浦太夫の塚もあった。昭和10年の春までは、2基の石碑のそばに高さ20mにも及ぶ大イチョウがあったという。1基は江戸時代中期、藩主から三浦山の管理を委嘱された加子母村の内木氏が建立したもの。もう1基は明治44年に滝越の住民が建立したもの。昭和11年よりダムの建設が始まったため、滝越の住民は同年に集落内に三浦太夫の記念碑を建て、翌年には墓碑を集落内に移設し、永く祖先を祀ることにした。
 以下は同書より「三浦太夫記念碑」の全文(本文内の誤植の可能性あり。また時代から鑑み、実物では旧字体が使われていると思われる)。


三浦太夫ハ其何人ナルカヲ詳ニセズト雖モ大祖ハ三浦介ナリト伝ヘ或ハ滝口ノ侍ナリシト云ヒ或ハ朝夷三郎義秀ナリト云ハル我滝越区三浦氏ノ始祖ナリ初メ三浦太夫三浦平ニ隠栖シテニ農ニ帰シ数世此地ニ居住セルモノヽ如シ然ルニ風土農ニ適セズ乃チ滝越ヲ開拓シテ従ル爾来幾星霜三浦太夫ノ墳冢ハ荊棘ニ埋マル江戸時代三浦山ノ管理人内木氏墓碣ヲ建テテ之顕シ明治四十三年其後裔ナル三浦氏一同ハ新タニマタ石ニ勒シテ始祖ヲ祀ル
今茲ニ大同電力株式会社ハ三浦平ヲ以テ貯水池トナサントス、工成ナラバ我始祖ノ墳冢ハ水底ニ埋没セラルヽナリ依テ同会社ノ援助ヲ得テ墳塋ノ移転ヲナス 新墓域ハ高燥閑雅ニシテ滝越区ヲ一望ニ瞰下ス冀クハ始祖ノ霊ヨ平安ニ鎮メ永遠ニ三浦氏一族ニ加護ヲ垂レ給ヘ

 昭和十一年十一月三日


 なお古くは「みうれ」「みむれ」と呼んでおり、今日でもこう呼ぶ年配者も多い(刊行は昭和36年)。昭和に入り帝室林野局三浦出張所が設置され、三浦山中にダムが築造されてからは、「みうら」と呼ばれるようになっている。

 三浦一族はかなり早い時代にこの地を去っており、旧版地形図に記された建物は営林署の三浦出張所に関連するものであるよう(大正時代の地形図には地名・建物の記載がない)。同所は昭和10年開設。火災のため昭和20年7月王滝出張所に合併したが、同21年4月再び三浦出張所が分割された。昭和24年4月廃止。
 森林鉄道は、まず大正12年に上松町より氷ヶ瀬(こおりがせ)まで開通。昭和5年滝越まで、昭和8年三浦まで到達した。

 三浦ダムは、昭和11年着工、同17年完成。工事は間(はざま)組の請負で、期間中には土浦沢口の平地を整備して「間(はざま)村」ができた(昭和11年から18年)。一時は3,000余人が在住したといわれる。
 なお工事に伴い入山した日本発送電三浦建設事務所や請負の間組従業員、その労務者の子弟の教育のために、「間村」に小学校の三浦分室が設けられた。開設は昭和12年2月11日。在籍最多の時は130名余にも達した。昭和18年夏、ダムの完成により廃止され、大鹿分室として氷ヶ瀬に移転。これも昭和22年工事の終了に伴って廃止となった。全国にも類例の少ない学校で、開校中は諸官庁・地方各種団体の視察者が多かったという。


 堰堤より集落方面を望んだのみであったが、現地は完全に水没しているため痕跡はないと思われる。
 なお滝越から先はゲートが設けられており、訪問は自転車に拠った。

 


写真1 ダム堰堤

写真2 集落跡方面を望む

 

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