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◆大木流作(おおきりゅうさく)

※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「野田」(昭和56.9)を使用したものである
所在:守谷市大木(おおき) 地形図:守谷/野田
形態:川沿いに家屋が集まる 標高:約10m
訪問:2026年3月
大字大木の南部、鬼怒(きぬ)川左岸にある。大木の本集落からは、川を挟んで対岸となる。
資料『大八洲開拓史』によると、満洲からの引揚者である「大八洲(おおやしま)開拓」の戦後開拓地のひとつ(流作農場)であったとのこと。菅生村(現在の常総市)および大井沢村(守谷市)に亘る「菅生沼地区」を中心に行われ、当地には23戸が入植した(このほか浅間山(せんげんやま)に20戸、素住台(すずみだい)に21戸、大原(おおはら)に14戸が入植)。
昭和21年9月満洲より引揚、10月「菅生沼地区」に入植地決定。開拓の最初期は戦後の混乱期であり、区劃は設けられずに手当たり次第の仮配分で開墾が進められた。大木地内においても耕作に適した地は既に畑になっていたが、鬼怒川堤防沿いの砂山が未開発であったため、まずこの地で開墾を始めた(昭和21年11月18日開墾着手、30日までに大麦・小麦70aを作付)。これが最初の開墾地で、後年の住宅地になっている。
昭和22年4月、大型トラクターが導入され開拓も順調に進み、同年夏までには流作の鬼怒川河川敷20haの開墾を済ませ、陸稲・トウモロコシ・粟・里芋・馬鈴薯・甘藷などを作付し、水田も70aほど試作した。
昭和22年9月15日、カサリン台風により冠水。
昭和22年6月より、開拓地に1頭の乳牛を導入。なお流作の堤外の河川敷は、入植当時から採草・放牧地として使われていた。同年9月末頃には10数頭の緬羊が導入され、乳牛と一緒に流作の河川敷に放牧された。
昭和28年1月29日、電気導入。
昭和30年、入植当時は工事中であった堤防が完成。しかし天端の一部は低くしてあり、洪水時には利根川より開拓地に水が流れ込むようになっていた(溢流堤)。開拓地は遊水地の役割を果たすこととなる。
昭和34年8月14日、台風7号により堤防が決潰。田畑は全滅、集落の23戸は軒下まで浸水したが、人命だけは難を逃れた。災害激甚地の指定を受け、同年12月31日には住宅地の嵩上げ計画が決定。全額国の負担で宅地造成工事が実施されることとなった。
昭和35年1月8日、宅地嵩上げ工事の測量を開始。6月1日より工事開始。工事は順調に進行したが、国の定める宅地造成地面積は農家の宅地としては狭く、組合事業で追加で嵩上げ工事を実施することとなった。10月1日、嵩上げ工事完了。住宅の建設が開始された。
同年8月25日、建設省の溢流堤復旧工事完了。鉄筋コンクリート製の頑丈なもので決潰の懸念はなくなったが、高さが元のままであり溢流の不安は残っていた。一方、鬼怒川・利根川の上流ではいくつもの多目的ダムが造られ、また建設ブームで鬼怒川・利根川の砂利や砂が大量に採取され、河床が下がっていた。
昭和37年1月6日、流作の飲用水(簡易水道)工事開始。
昭和37年、住宅・畜舎などの工事が完成し、4月17日に復興祭が開催された。
昭和45年11月21日、流作公民館竣工。
なおWikipediaの「大木(守谷市)」のページには、これ以降の当地の動向について「2006年(平成18年)には、田畑が約370ha、牧草地約70ha、酪農血約20ha、居住戸数21戸を数えたが、水害が懸念されることから住民の利根川東岸への住居移転が進められ、2007年(平成20年)には完了した」とある。
また地形図(2万5千分の1)では平成17年発行のものでは集落が見られるものの、令和元年のものでは大型の建物群となっている。
現在は集落の面影はなく、かつての住宅地の全域が酪農施設群となっている。
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