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◆西大木(にしおおき?)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「野田」(昭和56.9)を使用したものである

所在:守谷市大木(おおき)・板戸井(いたとい)
地形図:守谷/野田
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約10m
訪問:2026年3月

 

 大字大木の北部および板戸井の南部に亘る集落。大木の本集落から、鬼怒(きぬ)川を挟んで対岸にある。

 町史によると、寛永年間(1624-44)に鬼怒川が掘鑿されてから新たに開発された集落(大木新田)で、伝承では鹿小路村(※1)の農民高梨氏が最初に着手し、続いて目吹村(※2)の農民野口氏、さらに保木間村(※3)の農民新島氏が開発に当たったという。それぞれ「上の家(かみのうち)」・「中の家(なかのうち)」・「下の家(しものうち)」と称し、地区の北部・中部・南部に居を構えた。その後も各地から入植する者があり、江戸時代末期の記録では17戸となっている。
 なお
鬼怒川・利根川が合流する低地であったためしばしば洪水があり、人々は「流作場」と称して洪水を覚悟の上で農耕に従事していた。また領主もこのことを考慮し、平年でも年貢を減じていたという。

※1 現在の常総市内守谷町の鹿小路(かなこうじ)と思われる
※2 千葉県野田市目吹(めふき)
※3 野田市三ツ堀(みつぼり)の保木間であるよう

 資料『利根川水系農業水利誌』によると、当時の30戸が2年連続の水害を経験して、1982年に移転要望書を建設省に出すに至ったとのこと(刊行は昭和62年)。
 また資料『守谷わがふるさと』によると、菅生調節池の区域内にある当地はしばしば水害の危機にさらされていたため、建設省では昭和57年この地区内にある家屋の移転を計画。住民側も同56年・57年の洪水により不安を募らせており、また移転を推進する人もいたので、58年に家屋移転の協議がまとまったとのこと。
 さらに資料『大地を拓いた女たち』では、建設省の「西大木家屋移転事業」により全31戸が既に移転してしまったことが言及されている(刊行は平成3年)。ただし当地の南に隣接していた戦後の開拓集落である大木流作では、水害に遭いながらもこれまでの開墾の苦労を偲び、移転の話には応じなかったという。

 なお地形図(2万5千分の1)では平成2年発行のものでは集落が見られるものの、同7年のものでは神社と1箇所の建物のみとなっており、この時期に移転が行われたことが窺える。

 現在は集落の痕跡はほぼ皆無で、しばらく地図に残っていた神社や墓地も既に更地になっている(写真2)。

 


写真1 集落北端の風景。下段の道に沿って家屋が並んでいた

写真2 墓地・神社跡

写真3 枝道。右側に家屋が集まっていた

写真4 畑。かつての住宅地の一部

写真5 防火水槽の標識

写真6 集落南端付近の風景

 

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