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◆居切浜(いぎりはま)

※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「潮来」(昭和22.5)を使用したものである
所在:神栖市居切
地形図:常陸鹿島/潮来
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m
訪問:2018年3月
大字居切のうち、東側の飛地部分。すぐ北は鹿嶋市の泉川浜。
鹿島町史および神栖町史によると、鹿島臨海工業地帯の開発に伴い全戸が移転対象となり無住となったとのこと。開発は昭和30年代半ばから始まり、用地買収は昭和39年2月開始。同59年の開発組合解散をもって鹿島開発は終結した。
造成のため地形がかなり変わっており、かつての集落の範囲は北部が新堀割(しんほりわり)橋を中心とした掘割部分といくらかの陸地、南部が海面となっている。往時の痕跡は見つけることができなかった。
2026年、市内大野原(おおのはら)にある居切浜・深芝浜移転記念碑を訪問。以下はその碑文。
昭和三十六年茨城県知事岩上二郎は鹿島町神栖村波崎町を区域とする鹿島臨海工業地帯造成の大事業計画を発表した その経過計画によると人口三十万の一大工業都市を建設することにより これに即応した近代農業への体質改善をはかるいわゆる農工両全の開発を進めるということであった なかでも神栖村は開発の中核として 十万トン級の港湾を私たちの生活基盤である居切浜と深芝浜北部に堀込みその臨海部に工業地帯を配置する計画であつた 三十七年八月に知事が居切浜にこられその開発は政治生命をかけた一大事業であることを真剣に説明され 港に必要な用地の提供や移転について協力するよう要請された 鹿島港は三十八年に重要港湾に指定され居切浜の試験堤はさらに延長工事が進められた 一方北防波堤は鹿島町泉川浜より南防波堤は神栖村深芝浜より築堤工事が進められた結果 私達の部落は南北両防波堤に囲まれたかたちとなつた 防波堤工事が進むにつれて開発組合鹿島事務所長小林芳文をはじめ職員との団体交渉 個人折衝が連日連夜続けられた 私達部落民一同も度重なる協議を開いた結果 この開発が将来地域住民に繁栄をもたらすものとして用地の提供と移転を決意したのである ときに三十九年五月であつた 翌月から開発組合の補償調査がはじめられ十一月に個人ごとの移転補償額が提示されたが さらに折衝を重ね翌四十年三月に至り移転先を大野原に定め この地を立派に造成する事を条件に 全員異議なく移転承諾書に調印したのである 六月にはじめられた移転は十一月末に全戸が完了した 当時 大野原はその名のごとく人家もない広大な野原と砂原であつた しかし移転者一同はこの地を永住の地とし知事がいわれる人間性の勝利を信じ さらに開発組合職員の指導により決意を新たに再出発したのである その後鹿島港に急速に堀込みが進められ港に二十万トン規模に拡大され 四十四年八月に世界に向つて扉を開き企業の生産も相ついで開始されるに至つた 満々と水をたたえた中央航路に十万トン級の船舶が接岸するのをみる時 かつての住家はその姿をとどめるすべもないが さきがけて移転の一石を投じた波紋をかえりみ実に感無量のものがある 移転後すでに六ヶ年の歳月が経過しこの地も発展途上にあり生活も安定した これを機に移転者一同相計り賛助者の協力を得て鹿島港堀込みに協力した由来を万古に伝える為この碑を建つるものである
なお碑が置かれている公民館の敷地内には戦歿者の碑(留魂碑?)と石仏?、「幸福大師」の小堂があるが、居切浜もしくは深芝浜から移設したものだろうか。
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