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◆深芝浜(ふかしばはま)

※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「潮来」(昭和22.5)を使用したものである
所在:神栖市東和田(とうわだ)
地形図:常陸鹿島/潮来
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m
訪問:2018年3月
大字東和田の北部にある。町内には大字の「深芝」があるが、少なくとも現在において当地は深芝の所属とはなっていない(ただし鹿島港の入口付近と、鹿島液化ガス共同備蓄鹿島事業所の一部に深芝の飛び地がある)。
鹿島町史および神栖町史によると、鹿島臨海工業地帯の開発に伴い全戸が移転対象となり無住となったとのこと。開発は昭和30年代半ばから始まり、用地買収は昭和39年2月開始。当地では昭和40年6月より町内大野原(おおのはら)地区への移転が開始した。同59年の開発組合解散をもって鹿島開発は終結。
また当地にあった息栖(いきす)小学校深芝浜分校は、大正7年6月中島尋常高等小学校深芝浜分教場として開校(※)。昭和44年閉校。
現在の県道117号の起点から東西に1.5�qほどの範囲に集落が広がっており、今はほとんどが石油備蓄基地になっている。西側の一部は鹿島港の海上。
※ 息栖小学校のウェブサイトでは、大正6年9月26日となっている
2026年、市内知手中央(しってちゅうおう)にある移転記念碑を訪問。以下はその碑文。
鹿島灘の荒波が打寄せる砂浜に続く青松の地三五〇ヘクタールに開拓の努力を秘めて百年二〇〇余戸の点在する神栖町深芝浜これが昨今迄私達が永住の地としていた郷土でした 昭和三十六年茨城県知事岩上二郎が鹿島町神栖町波崎町三町に寄びかけこの地域に鹿島臨海工業地帯造成の大事業計画を公表し遠大な目標実現の為第一歩を踏み出すことになった この発想の根底はこの地帯の解放を目指し一千四百年前の鹿島文化の遺跡と徳川幕政から明治初年にわたる堀割川の歴史との対話の中からつかみとった自然への挑戦史でありまた血の出る様な農民の土地を生かそうとする農工両全の思想展開の動機づけでもあるとうたいこの計画が皆の協力のもとに「人間性の勝利」をつかみ取ろうと知事は政治生命をかけて真剣に私達に訴へられ用地の提供や移転について協力されるよう要請された 計画による私達の部落は鹿島港の臨港部に当っていました 鹿島港は昭和三十七年居切浜に試験堤の工事が進められ 昭和三十八年四月重要港湾に指定されると共に南防波堤は神栖町深芝浜より北防波堤は鹿島町泉川浜より築堤工事が進められ開発の進展に伴い居切浜を第一陣として私達の部落も昭和四十年六月より深芝浜第一次移転十二戸第二次四十四戸第三次五十二戸と安住の地を鹿島臨海工業地帯開発組合と折衝の末大野原横瀬団地へとそれぞれ移転して行った残る一〇六戸は当初計画では鹿島臨海工業団地帯造成事業計画からはずされていた為鹿島開発に伴う部落の整備計画を考えていたが開発の規模と深芝浜地先埋立の変更により昭和四十二年一月を起点として十月鹿島臨海工業地帯開発組合より移転が要請された この為昭和四十三年一月より度重ねて部落協議会を開き開発組合との団体交渉も連日連夜にわたる折衝を積み重ねの上にこの開発が将来地域住民の繁栄をもたらすものとして用地提供と移転を決意した 時に昭和四十三年四月翌月から開発組合の補償調査がはじめられ更に団体交渉個人折衝が繰り返えされ移転先を知手南部団地と定め昭和四十三年十二月移転契約が終了した 昭和四十四年一月より昭和四十五年にわたり地下水の渇水中央水路掘込にあたる県道の切断分校の閉鎖更には移転先の造成地の不備等々苦難の積み重ねを部落一丸となってこれを乗り越え切り開きながら先祖の墓と共に移転が完了し今日の部落が誕生したのである 今満々と水をたたえた中央航路に拾万トン級の船舶が接岸鉄鋼企業並に石油コンビナートの第一期事業が完工し、操業をまのあたりに見る時昔日の部落はその姿を想いおこすすべもないが往時をしのんで無量の感をいだくものである この地を永住の地として決意を新たに再出発して四ヶ年なお残された課題も多いが生活の基盤が一応整ったこの機に移転者一同相計り賛助者の協力を得て鹿島臨海工業地帯造成に協力した由来を記し後世の為にこの碑を建てるものである
昭和四十九年五月 神栖町議会議長 吉岡�f撰文
なお市内大野原(おおのはら)に居切浜・深芝浜の移転記念碑、横瀬(よこせ)に池向・深芝浜の移転記念碑がある。
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